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  日記  69              黙霖と筆談する草庵(左)黙霖は障害があり会話はできなかったが、詩や文章を書くことにすぐれていた 宮崎和夫さん作

黒船来航以来、日本の国内は様々な対立を生み、騒然としてきていた。その年の秋、青谿書院黙霖(もくりん)という僧が池田草庵を訪ねてきた。

「(前略)安芸の国(現・広島県)の僧黙霖という人が小島省斎の紹介状を持って来た。その人,聾唖(ろうあ)のため筆談で対話して夕暮れになる。納得できないところがある」(嘉永6〈1853〉11月3日)

黙霖は討幕や尊皇攘夷(じょうい)の同志を求めて、全国を行脚していた。草庵は友人で柏原藩(丹波市)に仕えている小島省斎の紹介状を持ってきたので面会を断るわけにはいかなかった。

 「講義は『史略』。検読4人。講義は『人譜』など。午後結髪。督課3人。講義は『論語』その間に時々黙霖と筆談でやりとりをする。(後略)」(同月4日)

塾生への講義などで忙しい合間に黙霖と筆談をした。しかし、草庵はもともと討幕や尊皇攘夷で行動を起こすことに熱心ではなかった。「僧黙霖に筆談で応酬する。塾生に検読3人。午後黙霖退去する」(同月5日)3日目にして黙霖は草庵を説得するのをあきらめたのだろう、書院から退去した。黙霖はその後も全国の行脚を続け、特に吉田松陰に影響を与えたと言われている。青谿書院は3日間にして、また平穏に戻った。草庵は、塾生に次のように語ったことがある。「身は時勢の外に超え,しこうして心は経綸の思いに苦しむ」(「肄業餘稿」23条)意訳すると次のようなことになるだろう。「自分は世の中の動きからは離れた山間の青谿書院 に身を置いて過ごしている。しかし、ここで学問を深め若者を育て、それを通して世の中や政治のあり方がどうあればいいのかとあれこれ苦心して(考えて)いるのだ」激しい行動の中に身を置くことはなかったが、草庵もまた日本の国のあり方や自分の生き方について山間の青谿書院で真剣に考えていた。

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  日記  68              草庵のもとに黒船来航を伝える情報が同じ日に3カ所から届いた。手紙を読む草庵と、それを取り囲む塾生たち 宮崎和夫さん作

嘉永6(1853)年の旧暦の6月3日、浦賀(神奈川県横須賀市)沖に4隻の巨大な黒船が突如あらわれた。ペリー提督の率いるアメリカ海軍の軍艦だった。これは日本中に大嵐の波を起こし、250年以上続いた徳川幕府体制をも揺り動かした。この波は、山陰の山あいの静かだった青谿書院にも徐々に押し寄せてくる。黒船は6月3日に浦賀に入ったが、この情報を池田草庵はいつ知ったのだろうか。
「宇都宮と京都の山田仙太郎の書状が届く。また、八鹿より使いの者が来る。いずれも、東方の浦賀の風説を伝えてきた(後略)」(嘉永6年6月19日)草庵が黒船がやって来たのを知ったのは約半月後だった。同日に3方からの情報が草庵のもとに届いたのだ。宇都宮(栃木県)は関東にあり、かなり詳しく情報を得ることができる地域にある。そこには、知人の岡田真吾らがいてそこから知らせてきたようだ。京都の山田仙太郎からも来ているが、彼は友人春日潜庵の門下生である。公家につながる潜庵にも、比較的早くその情報は伝わったのだろう。そして、地元の八鹿(養父市)の人かからも伝えてきている。この八鹿の人がどういう立場の人だったのかはわからない。3人の人たちはそれぞれに黒船来航に驚き、このことを少しでも早く草庵に、と知らせてきたのだ。
翌日、草庵は手紙を書いた。「昼寝から目覚めてお茶。手紙を4通書く。宇都宮の岡田と坂口千橘、それに京都の山田と安積(和田山出身の門人で、その頃は京都に滞在)。(後略)」(同20日)さらに新しい情報があれば、知らせてほしいというようなことを頼んだのではないか。そして、4日後の日記。
「今日の朝、異国船の的確な情報の書き物来る、。それらを念入りに読む」(同24日)。この新たな的確な情報が、どこからのものでどんな内容だったかなどは書かれていない。しかし、草庵にとっては異国船の来航の 詳しい情報は少しでも早く知りたいところだった。外国とどのように向き合っていくか、つきあっていくか、草庵にとっては今まであまり考えたことのなかった問題に直面していく。


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  日記  67                青谿書院で塾生たちに交じって草庵(中央)の講義を聴く相馬九方(左から2人目) 宮崎和夫さん作

池田草庵の師・相馬九方は家族で湯島(現・豊岡市城崎町)に保養に来て1カ月近く滞在していた。その間に草庵は九方に会いに湯島まで行っている。「早起き、黙座。講義は「論語」。検読3人。塾生の安積と松本を連れて湯島に行く。明日相馬先生に会う。日が暮れてから着く。宿は油筒屋」(安政5〈1858〉年9月2日)
「朝、相馬先生の宿を訪問。午後もまた訪問。夜は福田村の木築氏宅に宿す」(同3日)午前も午後も九方の所に行っており、いろいろな話をしたことだろう。
九方は保養を切り上げて湯島からの帰途、再び青谿書院に立ち寄った。今度は5日間滞在した。「(前略)今日の夕方、相馬先生は家族を連れて来られ、泊まられる。夜はずっといろんな話をする。一緒に聞いた客はおよそ5人。夜遅く就寝」(同21日)
「休講。相馬先生と終日終夜話しをする。國屋松軒が豊岡からの帰りに立ち寄る。松軒も一緒に話に加わる。夜は共に片山(実家・兄の家)に行く。片山に泊まる」(同22日)
このようにして九方は、青谿書院に9月25日まで滞在して草庵と旧交を温めたり、実際に草庵の講義の場に塾生に交じって座ったりしていたのだった。その時のことを明治に刊行された豊田小八郎著「但馬聖人」では九方の言葉として次のように紹介している。「草庵の講義を聴いて、私は初めて自分の60年の非を悟った。私が再び少年になれるなら、草庵を師とするだろう。私の子は女子ばかりだから、門下生で跡取りの土屋岩太郎を私の名代として草庵の元に入門させることにする」師の立場でありながら、草庵の立派さを自分以上だと認めた九方もまた立派な人だった。
そして実際に翌年、九方は土屋岩太郎という自分の門下生を、草庵の元で学ばせるために青谿書院に入塾させた。この土屋岩太郎は、後に土屋鳳州と名乗り奈良師範学校長、東洋大学教授などを歴任し、明治時代の日本の教育や漢学の信仰に尽くした人である。
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  日記  66               

池田草庵が自分の師として名前を挙げる人は2人いる。1人は満福寺の不虚上人、それからもう1人は儒学者の相馬九方である。その師相馬九方が、初めて青谿書院を訪ねて来た。

「早起き、黙座。講義は『十八史略』。検読3人。(中略)。相馬先生が来られた。しばらくして帰られた。(後略)」(安政5〈1858〉年8月22日)  

 九方に出会うのは京都時代以来、十数年ぶりだった。この時は九方は家族で湯島(現・豊岡市城崎町)に行く途中だったということもあってわずかな時間の再会だった。九方は体の弱い妻の保養が目的だったが、幼い2人の女児を連れての旅だった。

 そのころ九方は、岸和田藩に藩儒として召し抱えられ、藩校である講習館で若者たちを教えていた。それだけでなく、岸和田藩の藩政にもかかわるようになっていた。元藩主から「これまであなたのような素晴らしい人物を知らなかったことが残念でならない」との書を受け取ったと言われている(大阪府岸和田市のホームページから)。草庵が九方を師としていつも敬っていたのは、若いころ自分を導き教えてくれたからだ。草庵が満福寺での修業時代、九方は招かれて京都から広谷(現・養父市広谷)に来て、儒学の講義をしていた。その講義を聞く機会のあった草庵は感銘を受けた。九方が1年間余りの講義が終わり京都に帰るとき、講義を受けた若者数人が広谷の一隅に集まって、別れの酒席を設けた。その席で、みんなを代表して九方に別れの言葉を述べた。その言葉に感激した九方は「それをまとめて私への贈り物としてほしい」と言った。それをまとめたものが「送図南相馬先生洛序」(図南=九方の号=相馬先生の京都にいくを送るの序)である。草庵17歳の時のことだ。それを見ると文章といい文字といい、満福寺での数年間の修業で、草庵が漢文などの読み書きの力をどんなに伸ばしていたかがわかるものだ。

 その中で草庵は「私を産んだのは父母、私を教え導いたのは九方先生」と書いている。九方を父母と並べて書き、いかに尊敬していたかがわかる。草庵はこれを書いて1カ月後、寺を出奔して京都の九方の元に走った。それ以来、九方は草庵の師であった。
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日記  65                旧暦の正月に福沢諭吉著「改暦弁」を読む草庵 宮崎和夫さん作

池田草庵の明治5(1872)年12月の日記はない。この月の20日余り前、突然大政官布告が出される。「来る12月3日を明治6(1873)年1月1日と定める」というものだ。暦が大政官布告で一方的に変わって、11月の次には12月でなく、明治6年1月になった。今までの暦(旧暦)に代わり新しい太陽歴を採用するということだ。

 草庵にはとまどいもあっただろうが、布告に従い明治5年11月の次に「旧暦十二月三日改 明治癸酉第一月」と日記に書いている。それから明治6年の日記を書き始めている。、

 「早起き、休講。朝片山(亡長兄宅)に行き、順介宅(亡次兄宅)に寄ってから帰院。昼小酌、酔って横になって休む。(中略)。村人時々来る」(明治6年1月1日) 

 急にやって来た正月だが、普段の正月と変わらない過ごし方をしている。しかし、旧暦の感覚を捨てきれない草庵でもあった。早起き。今日は旧暦の元旦なり。休講。片山に行き、池口家に寄って帰院。昼小酌、酔ってしばらく横になって休む。今日は、福沢其の著すところの「改暦弁」を1,2度読む。

(後略)」(同1月29日)

 あたらしい太陽暦になったが、旧暦の元旦に当たる日にはやはり正月を意識して過ごしている。そして、この日の読書は「改暦弁」だ。これは福沢諭吉が明治6年1月に出版したもの。慶応義塾大学出版会ホームページによると、この本は新しい太陽暦には賛成だが政府の性急なやり方に批判的な福沢が、国民にわかりやすく改暦の意義を説明したものだ。草庵は、儒学の本だけでなくこのような本にも目を通している。明治2年のことだが、同じ福沢が欧米の見聞をまとめた本「西洋事情」を読んだことも日記に書いている。長年慣れ親しんできた旧暦での生活は、簡単に切り替えられるものではなかっただろう。草庵はその後も旧暦を意識していることがしばしばある。例えば、草庵の誕生日は7月23日だが、「早起き、休講。今日は私の正当な誕生日なり」(同年9月14日)と書いている。新しい世の中の動きにも従いながら、しかし今までの生活様式、感覚を大事にしている草庵の姿がある。
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日記  64                大みそかの仕事が終わり訪ねてきた兄・子定と今年を振り返りながら小酌する草庵(右)宮崎和夫さん作

 現在のように太陽暦が使われるようになるまでは、1年のおしまいの日、大みそかは12月29日か

30日であった。その日、池田草庵はどのように過ごしていたのだろうか。

 「朝部屋の中をきれいに掃除する。浴湯し結髪。盛之助が来る。しばらくして帰ったが夜になって長兄と盛之助がまた来る。小酌しながら対話。今日は一日中雑事をいろいろこなす。時が過ぎていく」(嘉永元〈1848〉年12月29日)講義は、この29日にはないが、前日の28日まではしている。29日はこの年の最後の日で、部屋を掃除してから風呂に入り、結髪して身だしなみを整えて、夜を迎えている。夜にはまだ存命していた長兄とおいの盛之助を迎えてゆっくりと小酌しながらこの1年を振り返っているようだ。「早起き。休講。『性理大全』3ページ読む。一日中雑事。午後、右衛門が来た。夜は塾生と小酌しながらだんらんして過ごす」(明治4〈1871〉年12月30日)

 明治4年はまだ旧暦のままで12月30日がこの年最後の日であった。この年は12月28日まで講義をしていて、29、30日と休講になっている。「一日中雑事」とあるが、部屋の片づけや掃除をしたのだろう。もうすでに兄や盛之助は亡くなっていたが、大みそかでも残っていた塾生が何人かいたようで、彼らと小酌し、だんらんしながら夜を過ごしている。

 草庵の日記では、年の暮れの感慨などは書かれていない。しかし、漢詩、文章ではそれをしばしば書いている。次の文は塾生たちに語りかけた「肄業餘稿(いぎょうよこう)」からのもの。

 「春は桜の花を尋ね、夏は涼しい風を求め、秋は月光を眺めて楽しむ。こんなことをしていては、またたく間に1年は終わってしまう。今年このようであったとしたら、来年もこのようなことだろう。

結局のところ得ることは、なにがあるというのか、こんなことでは、情けないではないか」(「肄業餘稿」

76条)

 1年が終わっていく年の暮れ、草庵は自分でも厳しく1年を反省し、塾生にもそれを求めていた。そして、来年こそは、と改めて強い決心を促すのであった。

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日記  63                満福寺の入り口の階段。100段あまりあるが草庵は 何度も上がり下りしたことだろう。 濱 篤さん作

恩義を大事にし、たびたび満福寺を訪ねて不虚上人と親しく話していた池田草庵。その上人が亡くなられたという知らせが伝わってきた翌日、草庵はすぐに満福寺に出かけている。

「(前略)今日不虚上人が亡くなられたということだ」(嘉永5〈1852〉年5月17日)

「夜明け早起きして満福寺に行く。不虚上人の喪を弔う。八鹿を通って帰り、夕方帰院。疲れて就寝」(同18日)

  その後も草庵は満福寺にたびたび行っている。満福寺にある不虚上人の墓に参るのだ。

「午前、九鹿に行き林氏の喪を弔う。それから満福寺に行き不虚上人の墓に参る。その後、広谷を過ぎ大橋氏を訪問する(後略)」(安政4〈1857〉年9月1日)

「早起き。本日は休講。塾生の中島と話す。しばらくして、高浦、土屋、國屋、中島、西村など数人と一緒に八鹿を通って満福寺に行く。不虚上人の墓に参る」(安政6年4月15日)

草庵は不虚上人について「師は愚かな私を見捨てることなく、家にいる時は私をなぜるようにしてかわいがり、外出する時は私のことを気にかけ、教える時にはわかるまで繰り返して人の生き方を教えてくださり、大変手厚くしていただきました。師は私の父親のように私を育ててくださいました(「奉不虚上人書」から)と書いたことがある。きっと上人の墓の前でいつでも思い出していたことだろう。

 日記によると、上人の墓参りをした最後の日は、明治9〈1876〉年10月22日だ。この時は既に63歳、翌年の11月には、半年間余り東京の病院に入院することになる。生涯、不虚上人の恩義を忘れない草庵であった。
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日記  62                不義理をしていた満福寺の不虚上人と和解ができた 草庵(右)宮崎和夫さん作

池田草庵は青谿書院を開いてからも、幼い頃自分を育ててくれた不虚(ふきょ)上人(しょうにん)に会うためにたびたび満福寺を訪問した。「(前略)広谷(現・養父市広谷)に行き、太田垣氏を訪ねる。昼食後一休みしてから、大橋氏を訪問し夕刻まで話す。その後、新宮山満福寺に行き,老和尚(不虚上人)を訪ねる。その後、坂を超え朝倉を経て八鹿に。九鹿まで行き、林家に泊」(弘化4〈1847〉年8月1日)

 この時は不虚上人と和やかに親しく話がはずんだことだろうが、実は長い間、草庵は上人に会うことさえ拒絶されていた。草庵は10歳で満福寺に入り、この不虚上人には大変可愛がられて、期待もされた。しかし16歳の時、儒学者の相馬九方の講義を聴く機会があった。以来、自分は仏の道には向いていなくて、儒学の道に進みたいと考えるようになる。それは上人の恩義に背くことになり、迷いもした。しかし、ついには自分の志に向かってお寺を無断で出奔した。京都に出て儒学を学びながらも、草庵は自分を育ててくれた不虚上人の恩を忘れたことはなかった。何としても自分の進む道を理解してもらい、許してもらいたいと願っていた。京都から帰省のたびに、上人に許しを請いに満福寺に行った。しかし、門前払いをされるだけだった。それでも23歳になった時、草庵の真心が通じ、不虚上人に会うことが許されたのだ、。その喜びと感謝の気持ちは上人に宛てた手紙からうかがえる。

「以前から、ひと目師にお目にかかり、昔の恩のお礼申したいと思いましたが、了解してくださいませんでした。昨年の冬、私はまたふるさとに帰り、またまた願い出たところ、師は切実な思慕の思いをあわれみ、背いた罪を許してくださいました。ありがたいことに、温顔と慈愛の心から出る訓戒とをいただき、半日の間、(しゅう)(草庵の本名)の心を慰めることができました。ああ緝は我が師の知遇 を受けて、ついに願っていたことを果たしました」(「奉不虚上人書」から)

 この手紙は不虚上人との和解ができた翌年に書いたものだ。これ以後、草庵は機会あるごとに満福寺に不虚上人を訪ね、自分の歩んでいる道について報告し、上人も喜んで草庵の話を聞き、励ますのだった。
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日記  61                草庵兄弟の実家があった付近に立ってる草庵生誕の地の記念碑 濱 篤さん作

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 池田草庵を側面から支え続けた長兄の子定は65歳を過ぎ病気がちであった。「午後、八鹿の國屋氏宅から帰院。午後の講義は『史略』。終わって片山(実家)に行き、兄の病を見舞う。しばらくして帰院」(慶応4〈1868〉年9月6日)この2日後の8日の日記の前に「是ヨリ明治元年戊辰」と書いている。明治に改元された時である。日記には明治に改元されたことについてはそれ以上のことは書かれていないが、子定はこの明治がまさに始まるときに亡くなった。「片山に行き兄の様子を見る。午後4時ごろに亡くなった」(明治元〈1868〉年9月9日)

 これ以後日記には、「10日、(ひつぎ)におさめる。11日、埋葬。15日、夜になって帰院」とまとめて簡単に書いている。この日以降は次のような記述が続く。

「早起き、丘墓に上る。その後片山(兄の家)に行き霊位拝んでから帰院。夜、また丘墓に上る。片山に行き霊位を拝んで午後8時頃帰院(後略)」(同17日)

約3週間後の29日までこのような記述が続いている。この間は講義もせず、青谿書院を離れることもなく、兄の死を悼んだ。

 草庵は長兄の亡くなる3年ほど前、弟の和助も亡くしていた。和助は幼少の時、浪華(大阪)に奉公に出た。その後30代半ばで湯島(現・豊岡市城崎)に移り、商売をやっていた。「暮れ前、弟の亡くなったことを聞く」(慶応元〈1865〉年(うるう)5月18日)「同月19日、早起きする。休講にする。午後片山に行ってから、しばらくして湯島に赴く。夜中湯島に着く」「同月20日、この日弟の葬送がある」

 さらに草庵は、長兄が亡くなってから2年ほど経てから次兄の又七も亡くした。又七も早くから浪華に出て奉公していたが、40代でふるさと宿南に帰っていた。

「早起き。講義の『孟子』をしている時に、次兄の訃報(ふほう)を聞く。すぐに行き、しばらくして帰院。夜間また出かけ、次兄の顔を見る。しばらくして帰院。妻も交互にでかける」(明治2〈1869〉年12月20日)4人いた草庵の兄弟は、草庵だけを残してみんな亡くなったのである。
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日記  60                浪華(大阪)の泊園書院で医学を志して勉学する長兄の池田子定(中央)宮崎和夫さん作

 池田草庵に下野国(栃木県)の宇都宮藩から、藩主の指導者として来てくれないかという招きがあったことがある。このことを草庵が誰かに相談した、というような記述は日記にはない。招きの手紙が届いた日には、次のように書かれている。

 「宇都宮藩の岡田氏から手紙が来る。妻八鹿より帰る。夜、片山(実家・長兄の家)に行く。しばらくして帰る」(嘉永5〈1852〉年9月26日)

 草庵は招きの手紙を受け取り、その後実家に行っただけである。この3日後には断りの返事を手紙に書いた。実家に行ったのは相談というより、自分の決心を長兄の子定に報告に行ったのだろう。草庵の進む道についてはいつでも理解し、援助していた子定である。この時も、草庵の決心を理解し、応援したことだろう。しかし,子定の胸中は複雑なものがあったかもしれない。子定自身は若いころ学問で身をたてるために、ふるさとを離れていたことがあったのだ。

 「草庵の長兄子定は早くから医師になることを志し5年間も大阪に出て修行中、相馬九方の学友である藤沢東畡の塾に寄寓(きぐう)し古文辞学について、相当深い教養を身につけていた」(池田草庵先生日記『山窓功課下巻』西村英一)子定は、医師になる志をもって大阪で儒学の塾に入って勉学していた。子定の勉強ぶりは「渦潮の譜-岸和田藩儒・相馬九方と幕末の学者群像」(梅谷卓司著)の中で、「池田子定は、将来は医者を志し、いま藤沢東畡の泊園書院で儒学の研鑽(けんさん)に励んでいる秀才」と紹介されている。しかし、子定の場合は、両親の強い反対にあい、志半ばでふるさとに帰ったのである。子定にはこのような経験があったから、草庵が自分の信じる道に進むのを側面から応援し続けたのであろう。なお、子定が学んでいた同じ塾の先輩に相馬九方がいた。この縁で九方を但馬の広谷(養父市広谷)に招くことができ、お寺の小僧であった草庵の新しい道を開くことになったのである。

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日記  59                幼い草庵は長兄の子定に読み書きなども教えられ可愛がられた 宮崎和夫さん作

青谿書院を訪れて池田草庵と最もよく話をしたのは、草庵の長兄ではなかったか。

 「長兄が来る。しばらく対話。夜が更けてから寝る(弘化4〈1847〉年6月11日)このように長兄と「対話」「だんらん」「小酌」したことなどが繰り返し日記には書かれている。草庵は幼年ころからずっと長兄を尊敬しており、相談相手でもあった。

 草庵は4人兄弟の3番目、長兄とは12歳離れていた。草庵が10歳の時、母親が病気で亡くなり、父親も病弱であった。そのため一家離散のような形で次兄や弟は、浪華(大阪)に奉公に行くことになった。しかし、草庵は長兄の勧めなどもあり、真言宗の満福寺(養父市十二所)というお寺に入り、小僧としての生活を始めた。お寺に入った草庵は、そこでよく勤め、住職にも可愛がられ、期待されるようになっていった。しかし、18歳の時、儒学者相馬九方の講義を聴く機会があり、感銘をうけた草庵は、自分はこのままお寺での道を進むべきか悩み始めた。

その頃、長兄に宛てた手紙がある。「私は不幸せであった。幼いころに父母を亡くし、すがるものもなかった。そんな私を兄さんが可愛がって育て、一人前にしてくれた。私は、読書を好み、いろいろな術やわざを習った。しかし、こんな私には仏の道より良いもの見つからず、ついに出家した。そして、今である(池田草庵先生著作集「與兄子定」から)

 長兄は孫左衛門という本名であった、子定という号も用いていた。手紙は長兄に感謝しながら、さらに相馬九方の講義を聴いてから新たな道に進みたいという願いが出てきたことを書いている。「今の私はどうしても僧として生きていくことに満足していません。心ひそかに期するものを持っています。私は愚かであるが、発奮してこの志を遂げたい」(前掲書から)

 この後、草庵は「心ひそかに期するもの」に従い相馬九方の後を追い、恩義ある満福寺を出奔したのである。
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日記  58                1985(昭和60)年に作られた池田盛之助の墓を覆う上屋 濱篤さん作

 「晩、帰院」(嘉永4〈1851〉年5月28日)

 池田草庵が、門人の池田盛之助、木築秀次とともに江戸から青谿書院に帰ってきた日の日記だ。

2月27日に出発してから3カ月の旅であった。その日の日記の文面はそれだけ。この旅は、佐藤一斎や大橋訥庵らと出会うなど多くの収穫があった。しかし、門人であり、大きな期待をかけていたおいの盛之助の病を重くしてしまった旅でもあった。

帰郷してからも、盛之助の病はよくならなかった。11月になると、盛之助はほとんど起き上がれなくなっていた。「(講義の後)片山(実家)に行く。おいの盛(盛之助)の症状を問う。しばらくして國屋松軒(門人で医師)と一緒に帰院してしばらく対話。また、一緒に片山にいく。午後10時頃帰院」(同

11月14日)「(講義の後)兄が来て、しばらく話しをする。片山に行き、盛のそばで看病する。午後

10時頃帰院」(同15日) 

このころはほとんど毎日のように盛之助を見舞っているが、容体は悪くなるばかりであった。

 「夜、片山に行き盛をみて、夜更けに帰院、就寝。夜中、片山より呼び出しがあり行く。盛が重体。片山に泊」(同29日)

 「昼、盛之助、ついに逝くなり」(同30日)草庵を始め、家族、地域の人たちに惜しまれながら盛之助は亡くなった。草庵は盛之助を送る祭文を書き、その中で「来春には一つの碑を建て、盛之助の生きた跡を書いておきたい」と誓っている。その文章は12月の終わりにでき、翌年3月には石碑に刻まれた。

「盛は幼い時から書をよく読み、文章にも親しんだ。成長すると、大変積極的で努力家であった。5歳で実母をなくしたが、継母とも異母兄弟とも争わず大変人間ができていた」(「池田盛墓碑銘」から)などと、600字近い字数の漢文で書かれている。
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日記  57                江戸から京都まで戻ったが、病が重くなり独り宿で寝る盛之助 宮崎和夫さん作

 池田草庵たちが高名な佐藤一斎に会うため、江戸に着いたのは嘉永4(1851)年3月25日で  あった。一斎に会う日、おいの盛之助は病のため、宿に残り草庵について行くことはできなかった。草庵が帰ってから話すことを聞き、日記「緊要備忘録」に書きとめている。

 「晴。今朝早起。師は約束されていたので、朝早く佐藤氏を訪ねられる。盛(盛之助自身のこと)は、今なお体調不良でついて行くことができない。残念だ。それで、24日以降の日記を書く。午後、師は また佐藤氏が講義をしている愛日楼に出かけられる。師の話。一斎の講義は言葉は少なく、感動するところはなかった。講義を聴いている者は50人ほどで、いねむりする者もおり、緊張感に欠けていた」(同年3月28日)(吉田公平編「池田盛之助の『一斎先生訪問日記』」から)

 草庵にしては期待外れだったかもしれない。しかし、一斎の周辺の大橋(とつ)(あん)など儒学者と交わることができ、江戸に来た収穫は十分にあった。訥庵などを通して、貴重な書物を借りたり、それを書き写したりもできた。少し元気になった盛之助も加わって上野や浅草など見物に出かける日もあった。

 江戸には25日間いて、帰路についた。一路、日光に向かい、それから中山道を経て京都に向かった。この帰路、盛之助の体調はだんだん悪くなっていった。伊勢神宮などを回り、伊賀上野に来たときの  日記。「久しぶりの晴れ。(中略)盛、今日午後より腰痛並びに発熱で手足まひ。とても苦しい。晩宿に 着き、大発熱。身が焼けるようだ。服薬する。」(同年5月13日)

京都に着いたのは、江戸を出てから約1カ月後の5月15日。盛之助は歩くことすらほとんどできなくなっていた。「雨が降ったりやんだり。師と秀次は春日潜庵氏を訪ねるために外出。自分は横になって独り寝ていた。退屈なり」(同年5月16日) 毎日丹念に書かれていた「緊要備忘録」だが、これ以後は書かれていない。草庵たちが、青谿書院に帰ったのは、5月28日の夜であった。
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日記  56                体調を崩した盛之助はかごで江戸への旅をつづける。盛之助を見守りながら歩く草庵ら 宮崎和夫さん作

佐藤一斎は江戸時代末期の儒学者である。幕府の学問所である「昌平黌(しょうへいこう)」のトップを務め、その頃の学者に多くの影響を与えた。池田草庵は京都にいる時代、一斎について、「世間第一等の人物なり」(「読佐藤翁言志録」から)と書いている。その一斎に直接教えを乞いたいと願っていた。

 青谿書院を開いて4年近く経ったとき、草庵は江戸にいる一斎に会いに出かけることにした。草庵38歳、一斎は80歳近くになっていた。池田盛之助、木築秀次の2人の門人を連れての旅だった。

「(前略)午後、お灸。手紙を数通書く。終日混雑。明日の明け方江戸に向かって出発する」(嘉永4〈1851〉年2月26日)

 草庵の江戸行きについての日記はこれだけである。しかし、随行した盛之助はここでも「緊要備忘録」という題名で旅行中の毎日を日記に書いている。草庵の江戸行きの様子をこの日記から紹介する。(吉田公平編「池田盛之助の『一斎先生訪問日記』」から)「我がふるさとを出発する。夜は和田山の安積氏宅に泊まる(同27日)その後3人は3月1日に大阪に着き、草庵の弟などを訪問。それから、京都に出て春日潜庵らを訪問し、東海道を通って江戸に向かう。

 「江戸に入る。宿は不行き届き。飲食特に耐えられず。いずれ転宿しなくては、長逗留(とうりゅう)はできぬ。盛(盛之助自身のこと)はますます気分が悪い。伏せっていて起き上がることができない。師は、宿に着いてから文章を清書されていて忙しそうだ」(同3月25日)

 青谿書院を出発してから約1カ月で江戸に着いた。盛之助は旅の途中から、体調を崩し、馬に乗ったり、かごに乗ったりしてなんとか旅を続けていた。この盛之助について、医師の國屋正章氏は「盛之助は既に宿南出発前、肺結核に侵されており、今度の江戸行きの健康を案じながら、ひそかに心中期するところがあったのではないか」(國谷正章「池田盛之助伝記」から)と推察されている。

 盛之助の病はありながらも、ともかく草庵たちは江戸に到着することができた。
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日記  55                多度津の弘濱書院の玄関で林良斎に会う池田盛之助 宮崎和夫さん作

池田草庵は師友を求めて、四国、中国の旅をして、多度津藩(現香川県内)の林良斎という尊敬できる友人を得ることができた。それ以来、2人は手紙のやり取りを通じて互いに切磋琢磨(せっさたくま)していたが、草庵は良斎からもっと直接に学ぶために、自分の片腕とも言えるおいの池田盛之助を良斎の元に留学させることにした。「夜、盛也来る。塾生集まり小灼しながらだんらん対話。明日盛は讃岐の多度津にいく」(嘉永2〈1849〉年1月22日)盛之助(日記では盛也、盛と表記している)が林良斎のもとに出発する前夜の日記だ。塾生と共に小灼をしながら旅の安全無事を祈ったのであろう。翌日、盛之助は青谿書院を出発したのだが、きちょうめんな盛之助は、出発の日から「己酉日記」という題名で良斎の元への留学の日々を書き残している。盛之助は、大阪に出てそこから船に乗って高松に2月5日に上陸した。翌日の6日には多度津に着き、7日には林良斎に会うことができた。「朝起きて結髪。弘濱書院(林良斎の塾兼書斎)を訪ねる(中略)林良斎先生来られて、初めて面会。来意を述べる。先生は『私は田舎に住んでいる者で学問もできていない。あなたに教えるものがないことを心配している』と言われる。昼食を賜りしばらく話し合い。私は旅館に帰ることを願ったが、『今日はここに泊まりなさい』と言われる。先生は自分の家に帰られたが、しばらくして岡田弥一郎氏が泊まりに来る。静座の話などして、しばらくして就寝」(嘉永2年2月7日)(吉田公平著「池田盛之助の修学日記」から)翌日から、林良斎の門人たちと一緒に学ぶ生活が始まった。多度津には3月5日までの約1カ月間いた。帰りは京都の春日潜庵などを訪問してから帰郷した。「今日、盛が讃岐より帰る」(同4月4日)草庵は帰郷した盛之助から良斎から学んだことなどを、毎日のように聞いた。「朝より盛也の話を聞く。林良斎や春日潜庵の近況を聞く」(同4月5日)。「盛也来る。ずっと話していた。國屋松軒も来る。盛也の書き留めたものを見る」(同4月6日)。少しでも良斎から学びたい草庵であった。その良斎は、盛之助が多度津を離れてからまもなく病死したことがわかり、草庵の落胆は大きかった。
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日記  54                備前児島から讃岐丸亀に向かう船の中では船酔いが多かった。左から2人目が船酔いしない盛之助 宮崎和夫さん作

池田草庵は京都から帰郷して八鹿(養父市八鹿町)で立誠舎を開いたが、師や友人と出会うことも少なく、書物も手に入りにくかった。寂しさを感じていた草庵は2年後、おいの池田盛之助ら5人の門人を連れて、旅に出た。四国や中国、そして大阪、京都を回り、師や友人に出会う長い旅であった。この時、草庵はまだ日記を書き残していない。しかし、一緒に旅をした盛之助は。毎日几帳面(きちょうめん)に日記を書き残している。それは「中州遊覧日記」としてまとめられている。今回はその盛之助の日記から草庵や旅の様子を紹介したい。

 草庵に詳しい吉田公平・東洋大名誉教授の著「池田盛之助の修学日記について」からー

「八鹿を出発。昼には和田山(現・朝来市)の安積氏の家。この日の宿は、桑市(同)」(弘化2〈1845〉年7月29日)友人や門人宅に立ち寄りながらの旅の出発である。それから但馬、播磨を抜け、岡山に着いたのは8月4日、そこで吉備神社に参拝したり、町を散策したりしてから、備前の児島から丸亀に向かった。「昼前、船は荒れる波の中を出発。船は上下に大きく揺れる。手で支えることもできない。目も真っ()ぐに見ることができない。船中の人、ほとんど船酔い。私は酔わなかった。丸亀に着。宿は島屋」(同8月8日)「丸亀を出て、昼に多度津に着く。林良斎氏に会うことができる。林氏は禄400石余。その家は堂々とした大家だった。氏は、白沙集や人譜等から学んでいるとのこと。春日潜庵先生の説とよく合っていた」(同9日)一行は最初の計画では良斎に会う予定はなかったが、紹介してくれる人があってわずかな時間であったが会うことができた。これは、草庵にとっては思いもかけない良い出会いになった。草庵は翌日すぐに、良斎に手紙を書いた。「山河遠く隔てていても、志さえ同じでであれば肩を並べるように共に勉励の助けとなります。なんと喜ばしいことでしょう」(木南卓一「林良斎・池田草庵往復書簡」から)以後、草庵と良斎は「千古の心友」と言って互いに尊敬し学びあった。
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日記  53                京都の松尾山の山中で炊事や雑用を引き受けて働く盛之助 宮崎和夫さん作

池田盛之助は池田草庵の兄の息子、つまり草庵のおいにあたる。この盛之助はわずか25歳で亡くなったが、その生涯は草庵を支え続けた一生であったと言えるだろう。

 草庵が自分のふるさと宿南(現養父市八鹿町)に、青谿書院を建てて移ったのは弘化4(1847)年6月8日であるが、その頃の日記に盛之助の名前がたびたび出てくる。

 「夕方、盛之助来る。長兄も来る。しばらく対話。夜更け就寝」(同6月11日)

 「夕方、村人が数名来る。退去後、盛之助と芳太郎と夜中まで対話」(同13日)

 「夜、盛之助とずっと対話」(同17日)「夜、片山(実家)に行き浴湯。囲炉裏のそばで盛之助と話し合う。実に楽しい」(同11月29日)「夜は盛之助に王氏の文章数編とその他読ませる」(嘉永元〈1848〉年9月13日)盛之助は、草庵がまだ京都の松尾山で一人で修行しているときから、草庵に仕えるようになった。草庵の兄、盛之助の父親の頼みであった。草庵が京都に出てから6年ほど経った天保9(1838)年のことである。草庵は25歳、盛之助は12歳の少年であった。草庵のもとに来た盛之助は草庵を尊敬し、学問にも熱心に取り組んだ。また、日常の生活でも谷に水くみにいったり、山で(まき)を作ったりするなど炊事や雑用を引き受け、草庵を助けた。

盛之助は、草庵が山中から京都市中に出て塾を開いたときも、八鹿に帰り立誠舎を開いたときも、青谿書院に移ったときも、草庵とともにいて、草庵を支えたのだった。学問の上でも草庵が最も期待する門人に成長した。

 しかし後年、盛之助は病気のため25歳の若さで亡くなった。その葬儀の祭文で草庵は「私のために青谿書院を建て、私のために妻を選んでくれるなど、私のすべてを助けてくれた」と感謝の気持ちを述べている。
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日記  52                体の調子を整えるためにお灸をしてもらう草庵 宮崎和夫さん作

池田草庵はよく昼寝をしている。日記に「昼寝」「午睡」などの言葉がしばしば出てくる。

 「早起き。黙座。講義は『近思録』。検読9人。授読1人。昼寝をする」(安政5〈1858〉年3月16日)などと。昼寝は当時の習慣だったとの見方もあるが、早起きして仕事をする草庵には、昼寝が必要だったのだろう。それに草庵はどちらかと言えば病弱な体質で、昼寝で休息をとることも欠かせなかったと思われる。草庵は、人一倍たくさんの病を抱えていた。「昼、のどが詰まって手のひらに血を吐く。午後、横になるが、胸の辺りになお痛みがある」(嘉永3(1850)年3月20日)

「歯が痛く夜は読書できず、空しく過ぎる。」(安政4〈1857〉年3月13日)「腹部激痛あり、ほとんど一日横になって休む(安政6〈1859〉年1月18日)

「風邪気味。遅く起床。検読2人授読6人。昼寝後、講義」(嘉永2〈1849〉年4月26日)「胸郭に痛み、たびたび横になりながら講義」(慶応3〈1867〉年5月6日)

 吐血、歯痛、腹部激痛、風邪。胸郭の痛みなどの症状が日記には出てくる、草庵の妻久の兄は医者の國谷松軒であり、よく相談したりみてもらったりしている。それだけでなく、自分で体調を整えようとお灸(おきゅう)をしたり、断食をしたりしている。

 「早起き。部屋の掃除、黙座をする。朝、池口家に行き、背中と腰と脚にお灸する。講義は『十八史略』。検読3人。昼寝。午後の講義は『韓文』。今日の読書は『韓文』1編。夜、まだ腹部がよくない(安政6〈1859〉年8月11日)

 「昨日の夕方より断食。今朝も断食。とても疲れていて、今日は休講とする。塾生に腹部をさすってもらう。読書もできず空しく一日が終わる」(同8月12日)

 時々は病のため休講にし、読書ができない時もあったが、草庵は自ら体調を昼寝などで整えながら懸命に日々努力していた。
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日記  51                青谿書院の近くでは、コウノトリも猿もいがみ合わないで仲良くしていた。宮崎和夫さん作

コウノトリが、多くの人たちの努力によって再び日本の空に帰ってきつつある。青谿書院の近くの養父市八鹿町伊佐地区のコウノトリ放鳥拠点施設でも、育っていた幼鳥2羽が7月下旬に放鳥された。(※注)

 かつて青谿書院の前の山にもコウノトリがやってきて、池田草庵を楽しませていた。

 「前の山の峰に、高くそびえている松の木がある。その枝の上に鶴が来て巣を作りすんでいる。書院からこれを見ると、この付近の風景が何倍もすばらしいものになる」(「偉業餘稿」164条)

 草庵が「鶴」と書くのは、コウノトリのことだ。前の山の一本の松の木にコウノトリがすみつき、草庵を喜ばせている。日記の中にはコウノトリのことは出てこないが、草庵はコウノトリに親しみを持ち、詩や文章にはよく書いている。「鶴」という漢詩には次のようなことを書いている。「私の土地にはもともとコウノトリはいなかった。あちこちに網をしかけて捕らえる人たちがいるので静かなここに来て遊んでいるのだ。谷川で水をつついて魚を食べ、風を受けて休み、俗世間から離れて楽しんでいる。世間から離れているのは私もだ。私もおまえと一緒に高く飛び立ち広々とした雲の中にはいりたいものだ」(「草庵全集」から。漢詩はすべて意訳) 次の漢詩はコウノトリと猿についてである。書院の周辺に、コウノトリだけでなく、猿もやって来ていたのだろう。「最近思うこと」という題で書いている。

「ここではコウノトリと猿はいがみ合わないで仲良くしている。一緒に松風や小川の響きを聞いている。この山を一歩出れば、安心してすめるところはない。どこに行っても大きな鯨が暴れ回っているから」(前掲書から)

 時代は幕末で、国内で争いが起こっていることを、「鯨が暴れ回っている」と表現している。草庵は、コウノトリが猿とも仲良く過ごしているように、人の世も互いにいがみ合わないようになってほしいと願っているのだ。

(※注2017年)             池田草庵先生に学ぶ会

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日記  50                前庭に植えられ大きく育っていった松の木。この木は昭和30年代に枯れた 濱 篤さん作

「今日、腹の調子がよくない。横になったり起きて座ったりする。青々とした山を見ていた」(嘉永元〈1848〉年6月12日)「揮毫(きごう)2、3枚する。緑の山を望む」(同年9月7日)

 青谿書院から見える前の山は、池田草庵のお気に入りの景色だ。気分のよくないときや、ひと仕事終えてほっとしたときなどによく眺めている。草庵は前の山の小さい松の木を書院の庭に植えたことがある。「塾生を連れて前山に登る。小さな松の木を2,3株抜いて庭に転植する」(弘化4〈1847〉年10月1日)

前の山の景色を眺めているだけでなく、そこにある小さな松の木を塾生と共に書院の庭に移植したのだ。その松の木はその後、書院の庭で大きく育った。前庭には松だけでなく、(もみ)(かし)の木も植え、それらも大きく育った。こういう草庵について、草庵の孫に当たる池田紫星は、次のように書いている。

「前庭に松と樅と樫の三樹を植えた草庵は、塾生にこれらの木のように高い天をめざして生きてほしい、と言っていた。草庵その人は、松のごとく精高に、樅のごとに端正に、樫のごとく堅実な生涯を黙々と完成することに努めていた」(伝記「池田草庵」〈池田紫星著〉から)

 前の山の「一本の松」について次のようなエピソードを草庵自身が書いている。

「書院の前山の上に40~50年ぐらいの一本の松がある。その幹は高くそびえ、緑の枝葉は低く広がり、書院の庭の竹と相対していておもむきがある。私は、いつもそれを見て楽しんでいる。近頃のことだ、1人の木こりがその松の木を(おの)でまさに()ろうとしていた。私は、その木の代金を倍にしてこれを買った。書院からいつもみる景色を失わないためである」(「偉業餘稿」405~406条)

 自然の景色を守るために、まさに切られようとした一本の松の木を草庵は代金を支払って残してもらったのだ。
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日記  49               暑さの中、青谿書院の部屋で静座する池田草庵 宮崎和夫さん作

今年の夏も暑い。池田草庵の時代もやはり夏は暑かった。体のあまり丈夫でなかった草庵は、暑さは身にこたえているが、それには負けていなかった。

 「(前略)午睡する。目覚めると大変暑くて困った。しばらく黙座をする。夕方、片山(実家)に行き浴湯。夜になって帰院。塾生に『近思録』を講義する。この日、『易』6ページ余り読む。10時頃就寝」(嘉永元〈1848〉年6月29日)

 この日記は、青谿書院ができて間もなくの頃書いたものだ。昼寝から目覚めた草庵は暑くて困っている。それでも黙座をしている。夕方には、実家に行き風呂に入って汗を流したのだろう。夜には書院に帰り講義をし、読書もしている。「早起。講義は『左伝』。授読4人。午睡。講義は『尚書』。(中略)。この日の読書は、『左伝』4ページ。夜、暑さ当たりの気があり早めに就寝」明治3〈1870〉年6月29日)「暑さ当たりの気」というのは、今で言えば熱中症気味のような状態だろうか。青谿書院のどの部屋に行っても暑いのだから、暑さを避けることはできなかっただろう。そんな中で、塾生に講義をしたり、一人座って読書をしたりしているのだ。

 「偉業餘稿(いぎょうよこう)」の中に、「盛夏炎暑」という言葉で始まる文章がある。それは、暑さの中でもやる気を出そうと塾生に語っているのだ。「盛夏炎暑、日光は焼け付くように照っている。こんな時、静座をしばらくしていると、体中に汗が流れてくる。これをしばらくがまんして、苦しさを味わうことによってやる気を高めることができる」(「偉業餘稿」67条から)

「日光が焼け付くように照っている」日だ。座っていても汗が噴き出してくる。しかし、それをしばらくがまんしているとやる気も高まってくる、と草庵は塾生たちに語る。

 汗がでてくるとすぐに扇風機だ、クーラーだ、と言いたくなる者には、厳しい草庵の言葉だ。
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日記  48               松風洞で松風の響きなどを聞きながら静かな時間を過ごす草庵  宮崎和夫さん作

 青谿書院では、寮に入る塾生だけでも60人を超えることもあった。その上に近隣から通ってくる塾生もかなりの人数がいた。書院は昼も夜も、若者たちでにぎやかだった。しかし、そんな中でも、池田草庵は日々、読書したり黙座したりして学問を深めるために努力していた。

 草庵は寮を2棟新築したとき、そのうちの1棟の2階を「松風洞」と名づけた。その部屋は寮生のためというより、主に草庵自身が静かな自分の時間を過ごすために使った。そこで過ごすことができて、今まで以上に読書や黙座にも集中できたようだ。

「この日松風洞に入り、所蔵の書を広げて見る」(万延元〈1860〉年3月25日)

「昼寝の後しばらくして松風洞に行き、萩浦の描いた絵をしばし観る」(文久元〈1861〉年5月19日)

 松風洞では、いつも1人で自分の時間を過ごすというわけではなかった。

「夜、金井勘兵衛が訪れてくれる。塾生とも話すことが多くあり、松風洞に呼んで夜更けまで小酌」(明治4〈1871〉年2月27日)

松風洞に来客を招いたり、塾生を呼んだりすることもしばしばだった。その松風洞について、「今日は『松風洞記』を清書する』(安政5〈1858〉年5月1日)と日記にある。松風洞が完成して間もなく、「松風洞記」という文章を書いたのだ。草庵にとって松風洞が、どのようなものであったのかがよくわかる文章だ。「松風洞は、洞と言っているが木造だ。静かな洞穴のようなものなのだ。向の山は松の木が多く、ここで松風の響きを聞くと喜びでいっぱいになる。午前は書院で講義などして、午後にはここに来て日の落ちるまで出ないこともある。部屋には机一脚、黙座をするときに使う線香立てが1個ある。左右には数百冊の本が並ぶ。他の不要な物は何もない。ここで四書五経を読み、あるいは歴史書を見、私の志を思い出し、黙座して心を澄ませることができる」(「松風洞記」から)

 この松風洞で、草庵は静かな自分の時間を持つことができ、学問もさらに深めていったことだろう。残念ながら松風洞や寮の建物は現在は残っていない。
                    池田草庵先生に学ぶ会
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日記  47               麻疹がはやり塾生が一度に十数人も寝込んだことがあった。看病には草庵と妻が当たった。 宮崎和夫さん作

若い塾生でたちは、元気な時ばかりではない。急に発熱、腹痛などを訴える者もよくいた。

日記の中で、病人が出た最初の記録は次のようなことだ。「検読5人、授読1人、講義は『史略』。昼寝をする。夕方より片山(実家)に行き浴湯。夜になって仲山七郎兵衛(二方郡浜坂村)が急病。急いで帰る。医者が来て診断。塾生が集まり、湯を沸かしたり、薬の世話をしたりして看護する」(弘化4〈1847〉年6月27日)これは青谿書院に移ってから20日ほど経ったころのことで、みんなあわてている。

病人が出ると池田草庵も世話をしているが、主に草庵の妻がその仕事を引き受けていたようだ。塾生たちもあれこれ看病を手伝っている。塾生たちはよく発病している。「塾生1人大発熱。医者を呼び看病する」(嘉永元〈48〉年9月19日)「夜中、すでに寝ているときに名尾新太郎(多度津藩士)気分が悪くなる。起きて医者を呼ぶ」(安政2〈55〉年8月18日)「塾生1人腹痛。いろんな事があった。(安政5(58)年6月25日)

病人の診察は、妻の兄である國屋松軒(八鹿村)が来て当たることもあった。しかし松軒は遠方のため、たいていは書院の近くに住んでいた医師の三方浩哉が当たった。塾生が何十人もいるのだから、伝染病の時は大変だっただろう。1人が発病すると次々と伝染していったようだ。「今日塾生十数人麻疹(ましん)になり寝かせる(文久2〈62〉年6月22日)青谿書院の中で一度に十数人もの塾生が麻疹にかかっている。草庵は講義どころではなかったのではないか。

「幼い塾生痘瘡(とうそう)になる。体を湯できれいに拭く」(元治2〈65〉年1月11日)ということもあった。

草庵は、若者の元気な時も、病気の時も、すべてを引き受けて青谿書院で教育していた。
                    池田草庵先生に学ぶ会
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日記  46               塾生は自分たちで当番を決め、食事の用意をしていた。宮崎和夫さん作

青谿書院では、塾生が増えていった。「寄宿舎に入っている者が多いときは60人を超した」(「但馬聖人」豊田小八郎著から)こともあったようだ。これらの塾生はどのような生活をしていたのだろうか。

 池田草庵の日記には、塾生の日常の生活の様子はあまり書かれていない。その辺りのことは、青谿書院で学んだ人たちから聞いた話がまとめられている前述の「但馬聖人」でうかがい知ることができる。草庵の日記からは少し離れるが、同書からの引用で紹介する。

寮生の食事 「生活は極めて質素であった。食事は1年を通じて朝はかゆにたくあん3,4切れ、時としてはごま塩が添えられることがあった。昼はごはんに干し大根入りのみそ汁。夕食は茶漬け飯に漬物あるのみ。ただ毎月の三慶日の昼食には塩魚乾魚が出ることもあった」

毎日の食事の用意 「炊事係がまず献立を考え、指導の立場の人に承認してもらう。それから、水くみ、米をとぎ、(まき)を準備し、野菜を買うなどそれぞれの仕事をする。調理が終われば、まず先生に試食してもらい、それからみんなで食事となる」

仕事の分担 「水くみ飯炊きなどすべて生徒の当番が割りあてられ、順番にやっていた。13~14歳の幼い塾生は主に掃除、時には豆腐を買いにいくことも。15~16歳の者は炊事をやり、20歳前後の者は指導の立場だった。金銭会計のことは、塾生の中から委任されていた」

食費について 「食費は毎日、米5合と薪炭魚菜料が多少必要だった。これらは米で納めても、お金で納めてもよかった。会計係が月末に過不足を決算した」

 寮生たちは質素な生活の中で、かなり自治的な活動をしながら日々を過ごしていたようだ。
                    池田草庵先生に学ぶ会
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日記  45                青谿書院の周辺の畑で、塾生たちは自分たちの食べる野菜などを作っていた。宮崎和夫さん作

塾生たちは、普段自分たちが飲むお茶の葉は自分たちでまかなっていた。

「午後、塾生を連れて山に茶の葉を摘みに行く」(嘉永4〈1851〉年8月10日)これは茶畑に茶の葉を摘みに行ったのではなく、山にある藤の木の葉などを茶の葉の代用とするために摘みに行ったと考えられている。また、自分たちの食べる野菜などもかなり自分たちで作っていた。「午後、塾生たちが野菜や大根などを収穫し、これを洗うのを夕方まで見る」(安政3〈1856〉年11月4日)豊田小八郎著「但馬聖人」によれば、書院の周辺には「数(うね)の畑があり、ここに野菜を植えていた」とある。数畝が具体的にどれくらいの広さだったか不明だが、塾生に必要な野菜などはかなり収穫できたのだろう。

 池田草庵は「学ぶ者は仕事や働くことは嫌がってはいけない」(「偉業餘稿」93条)と言っているように、机に向かって学問することも、体を使って働くことも大事にしていた。

 昭和32(1957)年に青渓中学校という青谿書院の名前を引き継いだ学校が発足した。青谿書院の周辺の宿南中学校と伊佐中学校が統合して新たにできた学校だった。その初代校長は渡辺武一氏であった。渡辺氏は学校の方針として生産教育を重視した。それは農産物の生産や家畜の飼育で、人間教育をするというものであった。「作物が育てば、われらも伸びる」が青渓中学校のモットーであった。渡辺氏は青谿書院のある宿南在住の人で、草庵についても敬愛を込めて研究していた。草庵の目指した教育はこのような形で継承されていた。

 なお、こんな話が残っている。青渓中学校の発足の時に、その校名を「青谿」中学校とする案もあったが、それではどうもおこがましいという意見が出た。その時、当時の県知事の阪本勝氏から「青渓」の文字にしたらどうかと提案があり、「青渓中学校」という名前に落ち着いたということだ(青渓中学校閉校記念実行委員会編「永遠なり青渓中」から)。その「青渓」の名前は、その後、現在の「八鹿青渓中学校」に引き継がれている。                             池田草庵先生に学ぶ会

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日記  44                青谿書院の建物が増築された安政の時代に、同時に整備された石段や周辺の石垣 濱篤さん作

青谿書院が開塾してしばらくは、入塾する者は近辺からがほとんどだった。しかし、池田草庵の名が知られるようになってくると全国のあちこちから入塾する者が増えてきた。「今日の午後、大石牧の書生3名入塾。福田勘解由入塾」(安政3〈1856〉年5月6日)

「今日午前、讃岐の多度津藩の3名入塾」(文久2〈1862〉年9月1日)

特に嘉永6(1853)年浦賀にアメリカの軍艦の来航、文久3(1863)年の生野の変など国内が騒然としてくると、入塾者が増えてきた。門人帳に記されている670名余りを、5年ごとに合計していくと次のようになり、塾生が急速に増えていったことがわかる(「解読・山窓功課下巻」西村英一氏編の付録資料をもとに集計)弘化4(1847)年、42人  嘉永5(1852)年、46人  安政4(1857)年,73人  文久2(1862)年、101人  慶応2(1866)年、185人、 明治4(1871)年、125人  明治9(1876)年~明治11年、41人

世の中が激しく移り変わっていく中で、これからの日本のあり方や自分の生き方について、草庵から学びたいとやって来たのだ。これらの多くの塾生が同時に書院に在籍していたわけではない。数カ月や1,2年だけで退塾する人たちもあった。しかし、入塾希望者の増加には、従来の広さの青谿書院では対応できなくなってきて、母屋や宿舎の建て増しが行なわれた。

母屋は講義や学習する床の間つきの6畳と8畳の2部屋が増築された。塾生の宿舎も8畳と10畳の広さの2階建てを2棟建て増しした、

「精義寮の造作がほぼできあがる」(文久3〈1863〉年9月17日)

これは寮の2棟目の建て増しが終わった時のことだ。青谿書院ができてから15年余り後である。この時で、ほぼ建て増しは終わった。ただし、この時代に建てられた宿舎は2棟とも現存しない。
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日記  43                青谿書院の母屋の間取り図 養父市教育委員会提供の資料を基に作成

池田草庵が青谿書院を建ててから170年ほど経っているが、母屋など主なところは、建築当時のまま残されている。造りが豪華であったり、高価な資材が使われたりしているわけではない。むしろ草庵の生き方そのままの質素な建物である。しかし、後に続く人たちが、草庵の精神を引き継いで建物を大事にし続けてきて、現在に残されてきたのだ。この建物を含めて青谿書院は現在、県指定文化財(史跡)となっている。養父市教育委員会の谷本進・教育部次長は「書院の建物の構造は、その時代の農家、特に養蚕農家の構造を参考にしている」と言う。そのころも全国各地には、若者を育てるための立派な藩校や塾もあったが、草庵たちが参考にしたのは近辺の農家の建物だった。

書院はかやぶき(今は保存のためトタンぶき)2階建てで建築されている。1階は畳の間4室、板の間2室、土間2室である。後に塾生が多くなってきたときに瓦屋根の畳の間2室が今までの建物に継ぎ足すように増築された。1階のこれらの部屋は、主に講義や学習の部屋と草庵一家が生活する部屋であった。2階ははしごのような階段を上がっていくようになっている。そこは天井の低い4畳半から8畳の部屋が5室ある。物置として使われる部屋もあったが、主に塾生の宿舎に当てられていた。

「夜になってから肩こりと歯痛。幼い塾生に肩たたきをしてもらう」(弘化4〈1847〉年6月17日)

「夜、山村譲太郎(現美方郡の人)や他の塾生と酒を酌み交わす」(嘉永元〈48〉年9月13日)

「端午の節句。休業。時々塾生を呼んでだんらん雑話。夜、岡田真吾(宇都宮藩士)を呼んで小酌しながら対話、夜更けまで」安政2〈55〉年5月5日)

 塾生に肩たたきをしてもらったり、酒を酌み交わしたり、対話したり。こんなことは1階に生活する草庵が2階に寝泊まりする塾生を呼んでできたことだろう。大声をだせば聞こえるような一つ屋根の下で、師弟共に生活しながら、厳しい勉学にも励んでいた。  (平成29年6月寄稿 原文のまま掲載)
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日記  42                青谿書院では女性の学ぶ姿も。男性の塾生とは少し離れたところで草庵(右奥)から指導を受けている。宮崎和夫さん作

池田草庵の生きた幕末から明治、この時代は男性はもちろん女性の中にも学ぼうとする機運は広がりつつあった。草庵とほぼ同時代に広瀬淡窓が開いた漢学塾の咸宜(かんぎ)(えん)(現・大分県日田市)では女性の塾生もいた。

 草庵の門人帳の中には女性の名前は見つからないが、書院にやってくる女性たちはいた。「午後兄嫁と近隣の女性数人来る。夜になって帰る」(嘉永元〈1848〉年4月2日)「今日は女性十数人招いて茶宴をし話をする。女性たちは夜は泊まる」(嘉永6〈53〉年1月5日)「片山と池口家の女たち数人来て、本を読む。深夜になって退去」(安政6〈59〉年11月9日)このように周辺の女性たちが、夜にたびたび書院にやってきている。集まって楽しくお茶を飲むだけでなく、草庵から学びたいとやってきていたと思われる。草庵は妻の久に「心学道話」の本を読み聞かせたり、長女には習字の手本を書いて教えたりしている。やってくる女性たちにも同じようなことはしていただろう。

また、こんな女性もいた。「八鹿の西村家の小娘が来る。(嘉永5〈52〉年10月5日)」。この女性は、10日間書院に泊まっている。1人で泊まっているので幼い子ではない。彼女は翌年の2月にも

10日間書院に来ている。その時、彼女が帰った日の日記には、「この日、西村氏の小娘退塾する」と書いている。「退塾」というのは、草庵の日記では塾生だけに使っている言葉だ。草庵は彼女を塾生の一人として接していたのではないか。10日間前後滞在するのは、妻の久の実家の「國屋嬢」という女性が来たときにもあった。國屋嬢は明治5(72)年1月21日~2月5日と、翌年の明治6年4月1日~19日の2回書院にそれぞれ滞在している。繰り返すが、これらの女性たちの名前は門人帳にはない。しかし、草庵から教えを学ぼうとしたり、短期間だけの入塾であったりしたのではないか。
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日記  41                3冊の門人帳。立誠舎から青谿書院まで35年余で、673人の名前が書かれている 濱葵さん作

池田草庵の門人帳には、立誠舎時代の62人も含めて673人の名前が書かれている。弘化4(1847)年に青谿書院に移ってからも入門者は但馬の人たちが多かったが、草庵の名前が知れわたるにつれて各地からの入門者が増えてきた。「京都川越屋敷留守居 鎌田升三郎来る。入門。升三郎と暮れまで話す。夜もまた話す」嘉永元〈1848〉年12月20日)これは現在の兵庫県外からの最初の門人であり、最初の武士の門人だった。それまでも、豊岡藩に招かれてそこの藩士たちに講義したこともあったが、門人帳に武士の身分の人が記載されたのはこれが初めてだ。

 その後、全国の各地の藩から次々と入門者があったことが日記や門人帳からわかる。特に、但馬の豊岡藩、丹波の福知山藩、讃岐の多度津藩などからはそれぞれ20人前後の藩士が次々と入門した。但馬から遠いところでは、関東の水戸藩や宇都宮藩、九州の平戸藩などからも入門した。江戸時代の末期になると豊岡藩や四国の徳島藩からは藩主の子息も入門してきた。武士の他に僧侶や医師、神官などの入門者も増えていた。

 日記「山窓功課」を解読された西村英一さんの集計によると、673人の入門者のうち、農民や町人などが474人、武士143人、公卿2人、僧侶43人、医師9人、神官2人となっている。

 草庵は「私はもともと山陰の百姓の子です」(「謁近藤翁記」から)と書いたことがある。伊予(現・愛媛県)の名高い儒学者近藤篤山に面会を求めるために手紙を書き、その冒頭で自分を紹介した文だ。

 厳しく身分の制度があった江戸時代であるが、「もともと百姓の子」である草庵の学問、識見そして真実に生きようとする姿勢には、多くの人が身分の違いなどを超えて尊敬した。そして、直接、草庵から学ぼうとして青谿書院にやってきて門人となったのだ。

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日記  40                入門の日。年若い入門希望者は親に連れられてくることが多かった。草庵(手前の背中向き)と面談して入門が決まった。 宮崎和夫さん作

「午後、高柳村(現・養父市)の福田達太郎、福田泰蔵、中尾左次馬が入門する。3人とも親父が召し連れて来る」(弘化4〈1847〉年2月19日) 日記「山窓功課」の中のこの記述は、池田草庵が青谿書院に移る前、まだ八鹿の立誠舎にいる時のものだ。立誠舎の入門者としては最後の方の3人である。父親がそれぞれ連れて来て、草庵と面談し入門となったようだ。入門するのにはその時期が決まっているわけではなく、いつでも入門できた。年齢も今の小学校低学年くらいの子から、青年と言えるような者まであった。学ぶ期間も決まりなく、数カ月で退塾する者や二十数年で退塾する者など、いろいろであった。例えば、後に京都府知事となった建屋(現・養父市建屋)出身の北垣国道は、7歳(8歳という説もある)で立誠舎に入った。数年経って家業を継がせようとして親が退塾させることを考えた時、草庵が「この子は優れたところがある。このまま学問させれば、大器となる」(草庵30年祭での「北垣国道の祭文」)と親を説得した。北垣は草庵と共に青谿書院に移り、27歳の時に生野の変に参加するまで門人であった。天保14(1843)年5月に開塾した立誠舎では、最初の塾生は15人であった。「門人帳」によれば、立誠舎では62人の名前が記されている。門人帳は、今で言えば学校の卒業生台帳のようなものだ。草庵が自筆で書いている。この門人帳には、入門した年月、氏名、出身の村などが書かれている。しかし、門人の年齢とか、いつ退塾したかなどは書かれていない。この62人の門人を、門人帳に記された当時の地名で数えてみると、養父郡が、大半を占めて33人。養父郡以外の但馬内では城崎郡、朝来郡、美含郡、七味郡、二方郡などから21人となっている。但馬外からは8人で、この人たちは全員丹波から来ている。立誠舎では、養父郡内の人を中心に、但馬の人たちが大半を占めていた。 立誠舎は、まだ借り住まいの塾であった。 約4年後、ふるさと宿南の山あいに自ら建てた青谿書院に塾生と共に移っていった。
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日記  39               斎藤畸庵が描いた「青谿書院の図」(部分) 青谿書院資料館蔵

今、豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」(同市日高町祢布)で「斎藤()(あん)の軌跡-城崎が生んだ幕末~明治の南画家」展〈6月27日まで〉が開かれている。南画というのは、主に水墨で山水などを描く絵のこと。山間に身を置いていた池田草庵は、畸庵の描く山水を好んでいた。畸庵とは、手紙のやりとりや青谿書院で親しく話し合ったりして交流していた。

 「斎藤畸庵が来て、ずっと話をする。夜になっても続けた。また、『畸庵随筆』を十数ページ開いて見る」(万延2〈1861〉年1月29日)この夜は畸庵は書院に泊まり、翌朝も話をしたり、畸庵の描いた絵を鑑賞したりして過ごしている。畸庵について、歴史博物館の情報誌には次のように説明されている。「城崎の旅館『伊勢屋』に生まれ、江戸時代後半から明治時代にかけて活躍した日本画家です。学を好み、詩を読み、全国を旅して南画を極めました。幼少より耳と片足に障害があり、南画に描かれる仙人のように杖を持って歩いたといいます」(豊岡市立歴史博物館ニュース48号から) 草庵は畸庵に、青谿書院や周辺の景色を絵に描いてくれないかと依頼したことがある。それは、草庵が尊敬する陳白沙先生と呼ばれる中国の明の時代の思想家の影響を受けてのことだった。このことについて、次のように書いている。「白沙先生は自分の書物巻頭に先生の住む里の絵を載せられている。山と川、それに風になびく(かすみ)が描かれ、茅葺(かやぶ)きの家があり、さびし気でありながら、志高くひっそりと住む趣がある。私もまた、画家にこいねがって青谿山房の絵を描いてもらった。それで、もし100年後にでも、私の書いた文章が残っていてそれを集めるようなことがあれば、その巻頭には序文の代わりに、この絵を載せてほしいものだ」(「偉業餘稿」163条)

 1977年に草庵没後100年を記念して、いろんな記念事業があった。その中で、草庵が塾生に語った「偉業餘稿」の全文(原文は漢文)が書き下し文として出版された。その表紙裏には、草庵が願ったように「斎藤畸庵画 青谿書院の図」が載せられた。

※平成29年5月12日発行朝日新聞記事より           庵先生に学ぶ会

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日記  38               草庵は幼少のとき、夕方になると目がほとんど見えなくなる病を患った。夕方、家路に向かう家族。草庵は父に背負われている。宮崎 和夫さん作

池田草庵は自分の誕生日を大事に迎えていた。「今日は私の誕生日だ。片山に行き霊位を拝する。また墓にも行き拝する」(弘化4〈1847〉年7月23日)

 毎年、7月23日の日記には、決まって「今日は私の誕生日」と書く。片山は草庵の実家。

草庵にとってこの日は、父母の霊前にこうべを垂れ、生み育ててくれた父母との思い出や父母の恩を思う日だった。「今日は不孝狐僧の誕生日なり。午後、塾生20人余り連れて父母の墓に参る。また、片山に行き、霊位を拝する。帰院して長く黙座する」(安政4〈1857〉年7月23日)自分のことを「不孝狐僧」と書いている。父母の前で「孝行もできなかったにせ者の僧であった自分」と、この時は厳しく自分を責めて迎えた誕生日だ。草庵の両親は、草庵の幼少のころ相次いで亡くなっている。しかし、父母との思い出はたくさんあった。草庵が27歳と28歳の7月23日には、「追想紀言」という題名で父母との思い出の文をいくつか書いている。その中から二つだけ紹介する。

「幼い時、私はいつでも母にくっついていた。母は、夜はしばらく私と一緒に寝て、私が寝るのを待って機織りなど一生懸命やっていた。私が目覚めて泣きやまなかった時があった。母はそばに来て言った。おまえは片時も私から離れようとしないが、私が死んでしまったらどんなにさがしても見つからないのですよ。そんな時、あなたはどうするのですか」

「幼い時、いわゆる鳥目にかかり、夕方になるとぼんやりとして何も見ることができなかった。父はあちこちに薬を求めに出かけた。また、山中の(ほこら)に、数十日も毎夜祈りに連れて行ってくれた。父は私を背負い真っ暗な山道を歩き、私は怖かったが、父は山路を踏み分けて登ってくれた。苦労を少しもいとわなかった父の恩は実に大きい」そして草庵は塾生たちに語っている。「毎日でも、生み育ててくださった父母の恩を思い返さなければならない」(「偉業餘稿」264条)と。
                            池田草庵先生に学ぶ会
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日記  37                草庵は墓で父母と出会い、お礼を言い、自分のことを報告していた。 宮崎和夫さん作

池田草庵は先祖を敬い、亡き人たちを大事にする気もちが強かったことが日記からもうかがえる。父母や祖父母の命日、それに自分の誕生日などには、父母や先祖の墓参りを欠かさなかった。また、青谿書院を開いてからは、毎月の1日と15日には決まって墓参りをしていた。

「早起。結髪。丘の墓に上がる。片山(実家)に行く。しばらくしてから、帰りには池口家(親戚)に寄ってから帰院」(文久元<1861>年4月1日)

「早起。座。食後、丘の墓に上る。片山に行き帰り池口に寄ってから帰院」(同年5月15日)

毎月の1日と15日にはこんな記述が多い。これらの日は、青谿書院を休講としている日でもあった。同時に草庵は読書したり、手紙を書いたり、来客と会ったりする日でもあるが、特別の事がない限り墓参りには必ず出かけている。年を重ねて体が弱ってきたときは杖をついて上がったり、妻や息子に代わりに行ってもらったりもした。その墓は、実家のすぐ近くの丘の上にある。青谿書院からは、歩いて20分ほどで行ける。墓のすぐ下が片山という字名で、そこに実家があった。現在はその付近に草庵の生誕地であることを記念する石碑が立つ。墓参りの前か後には、必ずといっていいほど実家に立ち寄り、帰りは途中にある親戚の池口家にもあいさつして書院に戻る。これが草庵の墓参りのコースであった。

 草庵が京都の山中で修行していた24歳の誕生日に「生日記」という文章を書いている。「生日記」というのは誕生日に記す、という意味だろう。その中に、次のようなことを書いている。「私の父母は不幸にして早く亡くなった。親子相楽しんでいるような場面に会うと、私の心は乱れていた。ああ、私は亡き父母が恋しい。私は自分の志すところの事を成し遂げ、亡き両親に報告するのだ」

 草庵は亡くなる直前までこの気持ちを持ち続けていた。草庵は墓に参るたびに父母と出会い、自分のことを報告していたのだ。
                            池田草庵先生に学ぶ会            
 草庵先生日々の暮らし 提供 朝日新聞
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日記  36               青谿書院の桜の花を塾生や村の人達も楽しんだ 宮崎和夫さん作

池田草庵は松やもみ、かしの木を好んでいた。これらの木が天に向かって伸び、冬の寒さの中でも(りん)として立っている姿にひかれていた。青谿書院を開いて間もなく、門人たちとこれらの木を庭に植え、それが大きく成長する姿は書院のシンボルであった。

 しかし、日記にはそれらの木だけでなく桜も庭に植えていたことが書かれている。庭に桜の花が咲くのを楽しみにしていたのだ。桜には様々な種類があるが、草庵は「桜」とだけ書いている。「今日、池口家の主人が庭に桜の木を一株植えてくれる」(弘化4〈1847〉年10月12日)

「今日、庭際に桜2株植える」(同15日)数年してこれらの木が成長して花を咲かせるようになってきた。「午後、兄嫁やおいの妻たちを招いて桜の花を夕方まで観賞する」(安政2〈55〉年2月30日)「講義の後、塾生と庭で桜の花を見ながら小酌。横になって休む」(慶応4〈68〉年3月14日)

書院の庭にも桜が咲いて春が来るのだ。山影にある青谿書院の庭は、いつまでも雪があり春が遅い。桜は里よりだいぶん遅れて咲き始める。庭の桜が咲くのを、草庵はいつも待ちかねていた。花が咲くと、草庵は一人では楽しまない。周りの人や知人を招いて一緒に楽しんだ。植えてから20年余りが過ぎて桜も大きな木になっていた。春になるとたくさんの花が咲き、やはり周りの人たちと楽しんだことが日記には書かれている。「塾生たちと庭で桜の花をめでながら、小酌。横になって休む」(明治3〈70〉年3月1日)「今日は桜の花満開で、婦人たちが何人かやってくる。村人も訪れる。みんな楽しく花をめでる。昼間から小酌して横になる」(同3日)

3月3日(旧暦)で(ひな)の節句だったのだろうか。ちょうど桜の花は満開になり、村人も村の婦人たちも花を楽しみにやってきて、青谿書院の庭はにぎやかになってきた。こんな時には草庵もお酒の一杯も飲んで、珍しく華やいだ気分の一日だったことだろう。

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日記  35               宇都宮藩からの招きの手紙を読む草庵 宮崎和夫さん作

青谿書院を建てから5年ほど経った時だった。池田草庵に宇都宮藩(現・栃木県)から藩主の指導者として来てくれないかという招きがあった。

「宇都宮藩の岡田氏から手紙が来る。妻八鹿より帰る。夜、片山(実家・兄の家)に行く。しばらくして帰る」嘉永5(1852〉年9月26日 使者の持ってきた岡田からの手紙は、現在の宇都宮藩主戸田忠明はまだ若く、その指導者として草庵にぜひ宇都宮藩に来てほしいというものであった。そして、その待遇は禄(給料)は200石、身分は用人格、子孫にも相応の禄を出すなどと破格のものだった。

この時代、学問をしてどこかの藩に取り立ててもらうというのは、学問をするものの一つの目当てでもあった。例えば、草庵の師の相馬九方は、草庵より12歳年上であったが、51歳で岸和田藩の藩需にようやく取り立てられた。九方は藩校「講習館」で斬新な教育をして注目され始めていた。九方の禄は、将来は100石も約束されていたが最初は20石であった。(梅谷卓司著「渦潮の譜」から)草庵は師のそんな情報も十分知っていただろう。40歳近くなっていた草庵も、さらなる自分の可能性を求めて新しい道へ進んでも不思議ではなかった。招きの手紙を書いたのは宇都宮藩の役人を務めていた岡田真吾である。岡田はもともと草庵の友人の春日潜庵の門人であった。潜庵の紹介で、早くからたびたび草庵とは手紙のやりとりをしていた。また、青谿書院にもやってきて、数日間書院に泊まり、草庵と対話したり講義を聴いたりするうちにますます草庵の人柄や学に敬服していた。その岡田が藩の重心たちと相談して、草庵に手紙を書いたのだった。草庵は岡田からの手紙を受け取ってから、3日後に手紙の返事を書いている。「岡田真吾氏からの手紙に返事を書いた」(嘉永5年9月29日)日記にはそれだけしか書かれていないが、迷いはなかった。返事は宇都宮藩からの招きを断るものだった。

 草庵は身分や生活の安定、名声などは求めず、青谿書院で今まで通りの道を歩むことを改めて決心していた。

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日記  34               春日潜庵とはこんな楽しいひとときもあった。潜庵と京都の渡月橋付近を散歩する草庵(右)

草庵の日記には、見た夢のことはほとんど書かれていない。しかし、友人の春日潜庵の夢を見たときは、書いている。「夜中、春日潜庵としばらく話をしている夢を見た」(文久2(1862)年8月23日)「明け方、潜庵と遊んでいる夢をみた。しばらくして目覚め、自分にあった迷いが無くなって明るい気分になった」(文久3〈1863〉年1月2日)

「この日寝ていて、潜庵と出会っている夢を見た。目覚めてからもうっとりとしていた。」(明治9(1876)年1月23日)夢にまで出てくる潜庵は、草庵の生涯にわたっての友人であった。潜庵が出てくる夢はいつも明るい。目覚めてからも、前向きな気分にしてくれる。

 故郷を出て京都の相馬九方の塾で苦学をしているとき、潜庵は草庵の唯一の友人だった。生活のことも学問のことも教えられることが多かった。潜庵は公家につながる出身で、草庵より2歳ほど年上だ。質素な生活をしている草庵をいろいろ援助してくれた。九方の塾を出て、京都松尾の山中に1人住んで修行したときには、その住まいの世話や生活の援助をそれとなくしてくれた。また、京都の名所である渡月橋や嵐山に誘ってくれて、いっしょに歩いたり風景を楽しんだりしたこともあった。

京都から故郷に帰った草庵は、翌年においの池田盛之助を潜庵の元に数カ月派遣した。「潜庵の学問からおまえが学ぶだけではなく、潜庵から学んだことを私にも教えてほしいのだ」(贈姪盛游京師別言)から)と盛之助を送り出している。

 幕末、潜庵は尊皇攘夷(じょうい)の活動をして、安政の大獄で捕らえられた。そして、岸和田藩別邸の一室に幽閉された。草庵はその状況に心を痛め、自分の部屋に潜庵の閉じ込められている部屋の見取り図を掲げてその苦痛を思いやっていた。

生涯にわたっての友人である潜庵は、草庵の夢の中にまで出てきて励ましてくれる。潜庵は明治なってから奈良県初代県知事などを務め、明治11(1878)年3月、草庵の亡くなる半年ほど前に亡くなった。

                            池田草庵先生に学ぶ会
     草庵先生紹介
日記  33                草庵が林良斎に宛てた手紙。巻紙を伸ばせば10mは越す。現在の400字詰め原稿用紙に書き写せば20枚程。この手紙は良斎の死後に届いた。

いつもは妻に優しい言葉をかけている池田草庵。だが、この時は思わず、「あっちに行ってくれ。これはあなたの知るところのことではない」(「祭林良斎文」から)と大声で言った。友人の一人、讃岐(現・香川県)の林良斎の亡くなった知らせを、手紙で知ったときのことだ。その日の日記。「讃岐の多度津から手紙が届いた。林良斎が先月の4日に亡くなった。と知らせてきた。良斎の子、求馬の手紙もあった。激しく慟哭(どうこく)する」(嘉永2〈1849〉年6月14日)

良斎の亡くなったことを知り、草庵は声をあげて泣いた。その声を聞いて妻、久さんが心配して部屋に入ってきたのだ。草庵にしてはめずらしく大声を出してしまった。「妻は、どういうことかはわかっているだろう。この広い宇宙で私の痛苦を知る者があるだろうか」と、「祭林良斎文」に書いている。それほど良斎の死は、草庵にとっては衝撃的なことだった。1カ月ほど前には、良斎たち友人の手紙をまとめて往復書簡集「鳴鶴相和集」を作って良斎にも送ったばかりだった。また、良斎の亡くなったのは5月4日だが、草庵は4月30日付で良斎宛てに長い手紙を出していた。 

草庵が林良斎と実際に出会ったのは1度だけである。立誠舎(養父市八鹿町)にいた時代、池田盛之助ら数人の門人らと師や友を訪ねて四国、山陽などを旅したときだった。良斎は多度津藩の家老職を務めた人で、草庵より6歳ほど年上の儒学者でもあった。他国の者とは簡単には面会を許さない藩だったが、仲介をする人があり面会がかなった。面会は2時間ほどだったが、草庵が「千古(=永遠)の心友に出会った」と言うほど意義のあるものだった。これ以後2人は、互いに尊敬と信頼で結ばれていった。

 出会ってから3年後には、草庵はおいの池田盛之助を良斎の元に送り、1カ月間学ばせた。良斎の死後、良斎の子の林求馬は青谿書院に来て学んだ。草庵は、良斎の生前の著作などを数カ月かけて書き写して「自明軒遺稿」と題してまとめた。自明軒とは良斎の号だ。千古の心友であった良斎は、いつまでも草庵の中で生き続けた。
                            池田草庵先生に学ぶ会
     草庵先生紹介
日記  32               「鳴鶴相和集」。草庵が4人の手紙を書き写し、和綴じにしてまとめた 濱篤さん作

讃岐(現・香川県)の友人の林良斎が2月に出した手紙を、池田草庵は5月に受け取っている。「林良斎が2月15日と19日に書いた手紙が2通、一緒に届いた。繰り返し何度も読む。喜びで慰められる」(嘉永元〈1848〉年5月28日)今から考えるとずいぶん日数がかかっている。しかし、かかる日数などには関係なく内容はいつも新鮮なのだ。友人からの手紙には、読書のこと、学問のこと、疑問に思うことなどが書かれており、喜びがあると同時に刺激を受けるのだった。草庵は友人からこうした手紙をいつでも手元に置き繰り返し読みたいと考えた。それで自分からの手紙も付け加えて往復書簡集としてまとめることにした。それを「(めい)(かく)相和集」と名づけた。「鶴」を題名に使っているが、草庵は鶴に親しんでいた。「鶴」という漢詩も書いているほどだ。ただし、これらの鶴はコウノトリだと思われる。青谿書院の周辺には、コウノトリが時折、飛んで来ていて、それを鶴と呼んでいた。嘉永2(1849)年4月19日の日記に「今日、『鳴鶴相和集』のあとがきを書き、それを清書する」と書き、そのあとがきには次のように書いている。

「吉林春池の4人の往復の書簡合計11編、私が順序立てて配列した」

吉林春池の4人とは、広島の吉村秋陽と讃岐の林良斎、京都の春日潜庵、それに但馬の池田草庵自身である。いずれも著名な儒学者であった。これらの手紙を草庵が筆写してまとめ、「鳴鶴相和集」として友人たちの手元にも送った。あとがきでさらに、次のように言う。「日陰にいる鶴は、群れを離れて1人で住んでいるように見える。しかし、志があればみんなと心が通じるものが必ずある。山陽と山陰、南海と京都とは、道は遠く数千里も隔たっているが、志や精神は通じあい、1人が唱えれば別の人が応えるだろう。この書簡集をそれぞれの座右に置いてほしい。また、群れを離れて1人 寂しく住む者のこころの慰めにもなるだろう」現在のように瞬時につながるネットワークではないが、山陽と山陰、四国、京都とを結ぶ志を同じくする者のネットワークが山間の青谿書院を中心にして作られていた。
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日記  31                   草庵は早朝や深夜、線香で時間を計りながら黙座をした 宮崎和夫さん作

線香が1本燃え尽きるには、少なくとも20~30分かかるのではないか。池田草庵は線香を立て、それが燃え尽きるのを目安にしながら静かに座った。黙座である。草庵にとって黙座は、読書とともに日々の自己の修養のために大切なことであった。読書ほどではないが、ほぼ毎日のようにしている。日記には「黙坐香1(ちゅう)」というような書き方をしている。これは「黙座を線香1本燃え尽きるまでした。」という意味である。香1、2炷のことが多かったが、時には次のように連日長い時間黙座をしていた。嘉永元〈1848〉年12月の日記から。

「19日。黙坐、香3炷。夜間心持ちはややよくなる」「20日。黙坐、香2炷。就寝12時頃」「21日。黙坐、香4炷。就寝12時ごろ」「23日。黙坐、香6炷。就寝12時ごろ」外は雪の降るような12月の深夜である。「香4炷、6炷」とはずいぶん長い時間1人で座っていることになる。

 黙座について、草庵は塾生たちに次のようなことを語っている。「人はまず自分を知らなければならない。自分を知らなければ努力もできない。私たちは、日々忙しさにまぎれて、自分はどういうものかということを見失っている。1人で静かに黙座してみると、自分を見つめることができる。そして、自分がいかに愚かでつまらないことを考えている人間かがわかる。そんな自分をごまかさないで、自分でそれを正していくのだ。それが独りを慎む、慎独ということ。そういう生き方を大事にしていこう」(「肄業餘稿」

135条~143条意訳)

草庵は黙座のやり方や作法についてはあまり説明していない。とにかく感情を静め、心を落ち着かせて、黙ってしばらく座る。これを継続してやっていくことが大事なのだ、と草庵自身の姿で言っている。
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日記  30                  草庵の本箱の一部。本箱には読んだ本、塾生に読ませた本など2千冊余りが保存されている。 濱篤さん作

池田草庵の日記には「今日の読書は『近思録』2ページ半。『論語』2ページ半。『通議』13ページ
(元治元〈1864〉年2月21日)というように、その日読んだ書物名、読んだページ数などが毎日のように書かれている。雑用や、体調不良で読書できなかったときは、「書物を読むことができず、空しく一日が過ぎる」などと書いた。読書は、草庵にとっては日々修養していくために欠かせないものであり、その日の大切な仕事でもあった。「唐書」という歴史書を読み終わったときには、日記に次のように書いた。
「今日は『唐書』5,6ページ読む。これでこの書物は読み終わった。昨年の9月20日にこの書物を初めて開いてからおよそ14カ月かかった。ようやく全部読み終わることができ、読み終わった後は、いつものことだが喜びにたえない。『唐書』のページを最初から開き直して見ている」(慶応3〈1867〉年11月7日)何カ月もかけて読み終えた草庵の喜びが伝わってくる。草庵はこれはと思う書物については、こうして何カ月もかけて読んでいた。草庵の読書の仕方について、友人や塾生たちは次のように語っている。「低い声で何度も断続して声を出して読む。その間に書物から何かを見つけ出そうとじっと考えることもあった。1冊読み終えた後、その本について一文をまとめていた」(「但馬聖人」より)
 草庵は読書の方法について、塾生に多くのことを語っている。「肄業餘稿」の中から抜き出して意訳して紹介する。
 「読書しながら疑問を持て」(27条)。「書物の中に住む虫のように。それだけの世界に住むな」(52条)。「聖賢の教えを知っているだけではだめだ。自分のこととして考えよ」(56条)。「読書と体を動かして実践していくこと、この二つを大事に」(172条)。「一生の間に読める書物はかぎられている。書物を選ぼう」(265条)
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日記  29                  2段になって水が落ちてくる猿尾滝 濱篤さん作

香美町村岡区にある猿尾滝は、この時期は雪が降り積もり訪れる人が少なくなっているが、滝の近くまで除雪され雪の中の滝が見られる。猿尾滝は、国道9号の村岡区日影から作山という集落に向かって1キロほど入った所にある。「日本の滝百選」にも選ばれ、県指定文化財(名勝)にもなっている。

 池田草庵は雪が解けた春になってからだが、猿尾滝を見に行って楽しんだ。草庵はこの滝のことを、日記や自分の文章の中では「猿王瀑布(ばくふ)」と書いている。これについては、「滝の立派さに敬意を込めて『猿の尾の滝』ではなく『猿の王の瀑布』としたようだ」と、当地で滝のガイドをしている西村寿さんは話す。草庵は日記に次のように書いた。「塾生3名連れて、村岡に行く。猿王瀑布を見る。夜は村岡の小谷氏の

家に泊まる」万延元〈1860〉年(うるう)3月4日)これは草庵が七美郡(現・香美町の村岡区と小代区など)や二方郡(現・新温泉町と香美町村岡区柤岡など)の人たちからの招きを受けて旅しているときのことだ。草庵は猿尾滝がよほど気にいったのか、翌日にもまた見に行った。そして、この旅から帰ってから「観猿王瀑布記」を書いた。「高さおよそ数十メートル、水しぶきが激しく落ちている。中間辺りに池のようになっているところがある。崖に沿って上り、これを見る。3メートル余りの広さがある。試しに石を投げて見ると、その深さはわからないくらい深い。滝は真っすぐに地に落ちている。地は皆平坦(へいたん)砥石(といし)のようだ。その上を水が光ながら流れていく(後略)」(「観猿王瀑布記」より)

草庵たちは猿尾滝を見てから旅を続けた。その後の日記には日付と泊まった家の名前だけが記されている。「閏3月5日、観猿王瀑布、宿小谷氏。6,7日小谷氏。8日山根氏。9日中井氏。10日山本氏、

11日丸上氏。12日夏川氏。13日丸上氏。14日夏川氏。15,16日丸上氏。17日小谷氏。

18日帰院」と。
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日記  28                  宿南の村の中を新年のあいさつに回る草庵 宮崎和夫さん作

池田草庵は正月をどのように過ごしていたのだろうか。青谿書院に移って半年後に迎えた正月の日記を読んでみる。 
「朝片山(実家)に行く。池口家に寄って帰院。年賀の客2,3人来る。塾生と対話する。午後しばらく横になる。夜、片山に行き風呂。10時ごろ帰院。読書は『畜徳録』20ページ。12時ごろ就寝」
(弘化5〈1848〉年1月1日)
  正月の4日間、講義は休みにしているが塾生は何人か書院にいた。その塾生たちと話したり、やって来る年賀の客を迎えたりしている。客はほとんど村の人たちだ。草庵はいつものように訪問してくる人を心温かく迎えた。そして、夜には正月でも読書。
 「年賀の客が終日次々と来る。夕方より兄嫁や2,3人の女の人が来て、夜遅く退去する。この日の
読書は『畜徳録』20ページ余り」(同年1月2日)
年賀の客は次々と来る。この日は女性の客も来た。この時期まだ結婚していない草庵にとって、華やかな正月の一日になったのではないか。「年賀の客、次々と来る。しばらく弄(ろう)筆(ひつ)を用紙1,2枚にする。夜は塾生と酒宴をして対話。この日の読書は『畜徳録』18ページ余り」(同年1月3日)3日目も年賀の客は次々と来た。その間に書き初めということだろうか、弄筆(揮毫(きごう)のこと)をしている。そして夜には塾生と酒宴もして、いつになくにぎやかだったことだろう。「検読を塾生3人に。村中をあいさつに回る。夕方帰院。夜は塾生と対話。少し疲れて横になる。読書はほんのわずかしかできなかった。(同年1月4日)新年の4日目、この日は草庵が村の中に出てあいさつに回った。帰院後、さすがに正月の応対で疲れたのか少し横になって休んだ。今まで3日間とも読書はよくできていたのに、この日はわずかだ。
草庵は、この年以降も毎年、村人を迎えたり村の中に出たりして正月を過ごしている。宿南の村の中で村の人々と生きていこうとする草庵の姿がある。

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日記  27                  岩滝寺境内にある草庵の漢詩の石碑 濱 篤さん作

池田草庵は、天滝から帰ってから10日ほどして、今度は丹波に出かけた。草庵の母は丹波の佐治村(現在の丹波市青垣町佐治)から嫁いで来ているので、草庵にとっては親しみやすい所でもあった。それに丹波には、草庵の友人や門人たちもいた。「頭痛は治ってきて気分はよくなった。塾生2人連れて書院を出発し八鹿を経て夜に丹波佐治村の小島伯輿を訪ね、対話する。夜が更けて就寝」(嘉永元〈1848〉年4月19日)

ここに出てくる小島伯輿(省斎)は儒学者で、草庵より9歳ほど年上だが草庵の古くからの友人である。後に柏原藩の藩需となり、藩の政治の一翼を担う役にもついた。

 丹波に出かけた草庵は、2日間は小島たちと過ごしていた。3日目彼らと「独鈷(どっこ)の滝」(現在の丹波市氷上町香良)のある山に入っている。「小島伯輿や塾生、そして佐治村や芦田村の人たち十数人で香良の山中に入る。切り立っている岩など存分に見る。(後略)」(同年4月21日)

 ここには「独鈷の滝」の言葉はないが、草庵は香良の山に入れば、当然独鈷の滝も見たはずである。4年前、まだ立誠舎にいる時代、同じように香良の山中に入り、独鈷の滝を見て、その感慨を文章にまでまとめているのだ。それほどの所だから、草庵は今回も独鈷の滝を見たに違いない。4年前、独鈷の滝を見て、そのことをまとめた文章は次のようなものだ。「天保15(1844)年9月。私は友人たちと丹波の香良山に遊んだ。林を通り抜け、石の狭い(みち)を上り、谷を渡り、空洞を見て、絶壁から落ちる滝を見た。崖に立つ松を眺め、険しい岩を踏み歩き、谷に下りてごつごつした岩の間を歩いた。(中略)体をかがめうつむいていると、哀れに猿が鳴くのが聞こえた。何ともいえない気分で、この世のこととは思えなかった。この夜は山中にある岩滝寺に泊まった」(「静養館記」から)

 草庵はこの時見た滝の感慨を漢詩にも書いた。その漢詩は、その夜泊まった岩滝寺(現在の丹波市氷上町香良)の境内に石碑として建てられている。次のような内容だ。

「弘化元(1844)年丹波香良山に来て作る。人生三十年俗世間の中で過ぎた。今朝初めてこのすばらしい山に入った。険しい岩は高くそびえ、(あお)い松は古木。一筋の滝は岩々の間を落ちていく

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日記  26                 今はよく整備されている天滝への道 濱篤さん作


 池田草庵は天滝に行ってから約1ヶ月後、日記に次のように書いている。

 「(前略)午睡から目覚めてから、『游天瀧記』をおよそ3,4枚書く」(嘉永元〈1848〉年5月3日)
 天滝を見たことを「游天瀧記」として文章にまとめたのだ。それには草庵が天滝をどのように見たか、何に感激したのかなどを書いている。原文は漢文で、長くなるが意訳して紹介する。「嘉永元年夏4月7日、私は友人と塾生数人連れて、天滝の景色を見に行こうと書院を出発した。この日は夏梅村の鎌田氏宅に泊まる。翌日の8日は雨が激しかったが夜になって晴れてきた。この日は市場村の田村氏宅に泊まる。9日、天気は快晴、市場村や夏梅村の人に案内してもらう」「筏村の山中に入り、谷底を歩いたり、山の中腹をよじ登るように横切ったりして1キロほど歩いて、ついに目指す大きな滝、天滝に着いた。水は激しく流れ落ちている。

 天滝というのは、流れ落ちる水が雲の間から落ちてくるからだろう。首を上げて仰ぐと、水しぶきは高い断崖の見えないところから激しく落ちている。たくさんの小さな光る球が、まるで長い糸がもつれて落ちてくるように見える。日の光は輝き、風は大きく鳴って、滝の勢いは激しく襲ってくるようだ。そこにしばらくたたずんでいると、めまいがして魂を奪われそうだ」「その辺の石に座り、草をしいて食事にし、酒を酌み交わす。心は清められ、俗界の汚れは流されていく。胸の中はすがすがしくなり、身も軽くなって、別世界にいるようだ。喜びでいっぱいになる。今までも有名な山や素晴らしい水の流れの景色のことを聞くことがあったが、これほどのものはなかっただろう。帰りには、少し歩いては振り返り、立ち止まり、詩の一つも口ずさんでいた。帰りたくないという気持ちだ。この日は平素の私の志をさらに確かなものにしてくれた」(「游天瀧記」から)

 今も天滝は、草庵の見た時と少しも変わらず、雲の間から落ちるように流れ続けている。

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日記  25                 天滝には何度も架け橋を渡って行く 濱篤さん作


「日本の滝百選」にも選ばれている天滝は、養父市大屋町筏の山中にある。落差は100メートル近い雄大なものだ。池田草庵は泊まりがけでこの滝を見に行った。
まず、天滝の近くに住む人からの誘いがあった。

 「午後,夏(なつ)梅(め)村(現在の養父市大屋町夏梅)の人より便りが来る。天滝に遊びに来るように勧めてきた。返事を書く」(嘉永元〈1848〉年3月9日) 

 草庵には、塾生の家族や元塾生だった人から、「ぜひ来てくれ」というような招待がよくあった。草庵もそれに応じて時折、但馬地域のあちこちに出かけていた。この夏梅村の人の招待には、手紙を受け取ってから約1ヶ月後に出かけている。

 「昼食の後、保田順と塾生3,4人連れて夏梅村に行く。宿は鎌田平兵衛氏の家。八鹿の西村五兵衛も一緒に行く」(同年4月7日)
宿として泊まったのは夏梅村の鎌田氏の家とある。草庵の立誠舎時代の門人帳には「養父郡夏梅村人 鎌田吉太郎(改名・平兵衛)」と書かれている門人がいるが、その人の家だろう。

 そして翌日。あいにくの雨のため山に入るのは中止になっている。「この日は雨で、鎌田氏の家に留まっていた。近くの人が絵の掛け軸をもってきてみる。夜になって晴れる。この夜は市場村(現在の大屋町大屋市場)に行き、田村見藏氏の家を宿とする」(同年4月8日)

 そして3日目。いよいよ山に入り天滝を見た。「筏村(現在の養父市大屋町筏)の山中に入る。天滝の景観をみる。この日、一緒に行った者はみんなで15~16人」(同年4月9日)

 草庵は、青谿書院を塾生など、3,4人と出発したが、この日は大屋の人たちも加わり、天滝に行ったのは15人ほどにふくれあがっている。日記は以上のように簡潔だが、天滝を見た感慨などはおよそ1ヶ月後に書いた「游天瀧記」という文章にまとめられている。次回に紹介したい。  
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日記  24                  鹿子(かご)の木」通称、(なんじやもんじゃの木)の中では兵庫県一の大木、とされる今滝寺の木 濱篤さん作

昨年6月、朝日新聞但馬版に「幻の滝 養父で確認」という記事が記載されていた。養父市八鹿町(こん)滝寺(りゅうじ)にある滝が、江戸時代中期の絵図に「名所」と書かれているが現在ではほとんど忘れられている。それに興味を持った人たちが、絵図を頼りに山中深く分け入ってその滝を確認した、というものであった。

 池田草庵も今滝寺には何度か行き、そこの山や滝の景色を見ているので、今は「幻の滝」と言われる滝も見ていたかもしれない。

 今滝寺は、国道9号沿いの八木地区から山道を1キロほど登った所にある集落だ。ちょうど国史跡の八木城跡の背後にあり、八木城主の菩提寺(ぼだいじ)の今滝寺とともにあった。地名に「滝」という字が使われているだけあって、大小の滝があちこちにある。

 草庵は京都から帰郷して八鹿の立誠舎で塾を開いて1年余り経ったころ、今滝寺に行っている。

「9月9日(弘化元〈1844〉年)、重陽の節句。今滝の山に入り、僧の神宗を訪ねる。神宗の案内で、咲いている花、大きな岩、そして滝、紅葉、それらをみながら歩き回った。そして、谷に下りて絶壁の下から峰を見上げる。そこにござを敷いて、夕日が迫っていることも忘れて、詩や学問のことを議論した(後略)」(「游今滝山記」)から)

 このころの草庵は、八鹿に帰って京都時代の友人と別れた寂しさ、それに雑用や心遣いなどで心身ともに疲れていたようだ。しかし、ここの景色を見ていると、「普段の不満や心の寂しさは一度に消えて、意欲も出てきた」とこの文章を結んでいる。、草庵の見た滝が、先の「幻の滝」だったのかどうかは確認できないが、今滝寺の山や滝の景観に心が癒されている。

 以上のことは、日記「山窓功課」を書き始める前の八鹿の立誠舎時代のことだが、「山窓功課」にも今滝寺に行ったことが書かれている。

 「(前略)午睡から目覚めてお茶。にわかに今滝山に行く。僧の神宗を訪問する。夜になって、月が昇ってきて下山。高柳に向かい(福田氏宅に泊」(弘化4〈1847〉年4月16日)

 急に思い立って行きたくなる魅力が、今滝寺にはあったのだろう。

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日記  23                  赤ん坊から二十歳までの2男3女の子どもたちと草庵夫妻 宮崎和夫さん作

長女蘿子(つたこ)の誕生後、妻の久はしばらく病を患ったが、それも5ヶ月ほどで元気になり、池田草庵もまた普段の生活に戻った。そして長女の誕生後、約5年経って、次の子が誕生した。しかし、この子は不幸にして誕生後26日で亡くなった。草庵の悲しみは大きかったが、それから3年ほどして女児が誕生した。

「今日の夜、女の子産まれるなり」(安政4〈1857〉年2月24日)

「今日は妻の産後、6日経った。親戚の者集まってきてお祝いする。終日にぎやか。この日、また読書せず」(同年2月29日)

草庵の喜びが伝わってくる。この女の子は竹乃(竹野の表記もある)と命名されて、順調に育っていった。そして竹乃の誕生から5年後、長男が誕生した。「今日の夜中12時ごろ、妻は男児を出産。女性数人来て事に当たってくれる」(文久2〈1862〉年1月6日)

「今日は小児に命名する。甥の妻来てくれる。小酌して横になる」(同年1月8日)

この子は徹蔵と命名された。、翌年1月6日には「今日は徹蔵の誕生日なり。女性たちお祝いのために集まる」と、みんなで誕生日を祝い、その成長を喜んでいる。「今日徹蔵に初めて『三字経』を授ける」(慶応3〈1867〉年8月16日)とある。まだ幼い徹蔵に本を読む手ほどきを始めているのだ。徹蔵が5歳7カ月のころである。

「三字経」というのは、漢文の初心者用の書物で、「父子恩、夫婦従、兄則友」など字を一句として、それを学習しながら人の生き方の基本を学ぶようになっている。徹蔵は、草庵の手ほどきを受けて、期待に応えながら成長していった。

その後元治元(1864)年には男児の修藏、明治2(1871)年には女児の藤枝が誕生した。明治4(1871)年に長女の蘿子が八鹿村の國谷氏に嫁ぐが、それまでは2男3女の子どもたちがいてにぎやか       な草庵一家であったと想像できる。しかし、日記には家族の様子などはほとんど書かれていない。

池田草庵先生に学ぶ会

     草庵先生紹介
日記  22                  長女を抱く草庵。妻の病も回復してきた 宮崎和夫さん作

妻の久は6月22日に長女の蘿子(つたこ)を出産してから、体調があまりよくなかった。5日後には、状態がひどく悪くなった。

「妻の病、大変重くなっている。親戚者みな集まる。混乱している。國屋松軒も来て、泊まる。片山(実家)に行き、霊位を拝する」(嘉永2〈1849〉年6月27日)

妻は、いわゆる産後の肥立ちがよくないという状態になったようだ。このような状況で6月は終わる。

7月1日の日記には、「朝、松軒は帰る。読書は『王子小伝』8ページ。病の妻の看護を終日終夜」とある。この後の7月の日記は空白で、最後次のようにまとめて書かれている。「この月は、妻の病の看護をして日を送る。その間、学問や修養は進んでいない。読書は雑書を少しばかりだ。ほとんどこのような状態で、夜も起きたり座ったりだ」

日記は8月に入って、「妻やや回復」と書かれ、続いて短い記述が7日間だけある。しかし、9月と10月の日記は全く書かれていなくて空白。日記「山窓功課」が32年間続けて書かれた中で、このように空白があるのは、他には旅にでている期間だけだ。それほど妻の看護に全精力を使っていたのだろう。その間も塾生への講義などは怠らずなんとかやっていたようだ。

それが11月の半ばに、今まで空白だった日記が突然次のように書かれている。

「早起。黙座。検読2人。午後、講義は『史略』。夜間も講義する。また夜間、黙座を線香1本半する。三更(12時前後)就寝(後略)」(同年11月14日)

池田草庵の終日終夜の看護のおかげか、妻は約5カ月かかってやっと回復してきたようだ。この日以後、また今までと同じように日記は書かれていく。妻も元気になり、草庵も日々努力していく今までの生活に戻ったのだ。

(池田草庵先生に学ぶ会)

     草庵先生紹介
日記  21                  草庵の長女の誕生した光景 宮崎和夫さん作

結婚からちょうど1年ほどして、池田草庵のはじめての子が誕生した。その前日から、誕生に関係する文を抜き出してみる。

「兄が来て、しばらく話してから帰る。夜、兄嫁や村の女の人が数人来る。混雑が続く。盛之助と芳太郎が来る」(嘉永2〈1849〉年6月21日)

「夜、村の女性数人来る。また親戚も集まる。医者が来る。國屋松軒来る。いろいろなことあり。家中混乱。夜明け近く4時ごろ妻、女の子生む。一晩中眠らず、明け方少しだけ寝る」(同22日)

草庵の長女の誕生である。前日からの日記に書かれていることは、お産という大きな出来事を前に、人の出入りが次々とある。親戚が集まったり、医者が来たり、何か妻の身に尋常でないことが何か起こっている雰 囲気である。

「今日は一日中、妻のいる部屋は騒がしい。婦女の出入りでごたごたしている」(同23日)

そして、ようやく3日目。

「この日、女子に命名する。女の人数名集まる。この日一日中ごたごたしていた。この夜は兄嫁が泊まってくれる。夜更けに就寝」(同25日)

女の子は元気に育っているいるようで、命名もされた。日記には書かれていないが、名前は「蘿子(つたこ)(「蘿」と表記されることも)」だった。命名はされたが、女の人たちが来たり、兄嫁が泊まったり、妻の周りは相変わらずごたごたしている。

それでも翌26日の日記は、今までのような普段の生活のことが書かれている。

「講義は『孟子』。検読4人。授読5人。三方氏が見舞いに来る。昼寝後、『畜徳録』を盛之助と読む。結髪。夜間は弟と話す。この日、いろんなことが終日ある(後略)」

しかし、翌27日になって、妻の体調がひどく悪くなったのだ。日記も妻の体調のことが中心になっていく。

(提供 朝日新聞社)


     草庵先生紹介
日記  20                  妻に「心学道話」を読み聞かせる草庵 宮崎和夫さん作


35歳を過ぎた池田草庵から見れば、20歳前後の妻は社会的な経験も浅い。それに、やがて最初の子どもも生まれてくる予定だ。草庵は何かと心配することもあったのだろう。また、妻に人としてのさらなる成長を願っていたはずだ。草庵は妻と話し合いをしながら、あれこれと教えている。

結婚してから半年ほど経った頃の日記 

「講義は『伝習録』5ページ。また講義は『小学』1ページ。検読は1人、授読は5人。午後、一眠りする。目覚めてお茶。(中略)午後の講義は『十八史略』。この日の読書は『論語学案』6ページ。黙座を香3本分する。妻と話し、あれこれとしばらく教える。それから就寝」(嘉永2〈1849〉年3月19日)

そして、この日の翌日には、妻に本を読み聞かせている。

「検読1人。授読5人。講義は『十八史略』1ページ。午後頭痛がして、横になったり、お茶にしたりして休む。この日『心学道話』を3冊読み、妻にこれを聴かせる。10時ごろ就寝」(同年3月20日)

この日の後も、たびたび妻に「心学道話」を読み聴かせている。

「心学」というのは、江戸時代に儒学や仏教、神道などを融合させて人の生き方、あり方などをわかりやすく説いた教えだ。青谿書院に移る前に、草庵が借りて塾を開いていた八鹿の立誠舎はもともとは心学を勉強する所であった。

「心学道話」というのは、その心学の内容を、物語やたとえ話などでわかりやすく書いた書物。

草庵と妻とのこのような時間は、子どもたちの誕生とともに少なくなっているが、草庵が晩年になってまた、「妻たちの(ため)に『心学道話』を読む」(明治10〈1877〉年3月19日)とある。草庵の亡くなる1年半ほど前だ。草庵は生涯にわたって、妻にも人の生き方を教え、妻もそれを受けとめて聞き、学んでいたのだろう。                                 (提供 朝日新聞社)                  
     草庵先生紹介
日記  19                   草庵の肩をもむ妻の久 宮崎和夫さん作

 池田草庵は、妻ともよく話す時間を持っていた。

 「検読5人。授読1人。片山(実家)に行ってから、しばらくして帰る。講義は『小学』。1人の塾生の質問を受ける。夜、読書をしばらくしてから、盛之助や妻と話す。この日の読書は『龍渓集』5ページ。二更(午後10時ころ)就寝」(嘉永元〈1848〉年8月21日)

 講義や読書で忙しい草庵であったが、妻の久とはよく話した。それは今までにない楽しい時間だったのだろう。久が書院にやって来た翌月の日記の中から抜き出してみる。

 「夕方から妻とだんらん、対話する」(同年9月3日)「夜、妻と話す」(同年9月7日)、「午前、妻とだんらん、対話する」(中略)。夜、また、雑話する」(同年9月9日)などと続いている。

 対話だけではない。これは翌年の日記だが、「夜、妻に肩たたきをしてもらう」(嘉永2〈1849〉年4月3日)というような日もある。今まで、「幼い塾生に肩たたきをさせる」ということはあったが、今度は妻がやってくれるのだ。

 しかし、妻とは楽しい対話ばかりではない。結婚から5年ほど経ってからのことである。

 「妻と対話する。深く反省させられる所があった。普段のいろいろな思いやりのない自分の言動に気づく。改めていかなければならない」(嘉永6(1853)年1月21日)

 妻との対話を通して、平素の自分の言動に思いやりのなかったことに気づいているのだ。

こういう草庵について、草庵亡き後、久は次のように語っている。

 「(夫は)普段の行いに裏表や陰日なたのない人だった。私に対しても、大事なお客様に接するのと同じような態度だった」(豊田小八郎『但馬聖人』より)

 草庵は自分の生き方として、「(しん)(どく)」(独りを慎む=どんな時でも自分の身を慎み、間違ったことをしない、の意)を常に心がけていた。妻との間でも草庵は「慎独」の生き方を大事にしていたのだ。

                                (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  18                  実家での草庵の結婚式 宮崎和夫さん作

池田草庵は35歳の時に結婚した。青谿書院を開いた翌年である。このことには若い塾生たちが気をもんで成立させたようだ。それは、草庵の(おい)であり、門人でもあった池田盛之助が亡くなった時、彼を送る祭文を読んだつぎの草庵の言葉で分かる。「(盛之助は)私のために妻を選んでくれた。また、私のために青谿書院を建てるためにがんばってくれた」。草庵は感謝を述べているのだ。

結婚式当日の日記。「検読 4人。大石牧と話をする。すぐに片山(実家)に行く。この日、婚娶(こんしゅ)。夜遅く書院に帰る」(嘉永元〈1848〉年8月11日)

婚娶とは、嫁をめとること。新婦は、八鹿村の医師國屋松軒の妹の久(久子の表記もある)である。久はこの時20歳前後であったと思われる。松軒は草庵の立誠舎時代からの門人で、盛之助らとともに草庵を支え続けていた人だ。日記によると、その日は新婦を草庵の実家にのこしたまま、自分だけ書院に帰っている。

そして、その後もしばらく草庵の実家に留まったままである。その間、草庵は書院で塾生に講義をしたり、新婦のいる実家に行って泊まったり、体調が悪くなって寝込んだりもしている。

そして、結婚式から4日目。「指導3人に1人ずつ。結髪。木築五郎右衛門が来て、しばらく対話。一緒に池口家に行き食事。しばらくして、書院に帰る。兄嫁が新婦を連れて書院に来る」(同年8月15日)

ようやく新婦が青谿書院にやってきたのだ。そして、その翌日。「検読5人。授読1人。講義は『人譜』。今日は、お茶にしたり、だんらんしたりした。夜、兄がきて、しばらくして帰った。身の回りの雑事も楽しくできる。読書はわずか2,3ページ。祝いの客も来る。盛之助は来て居る」(同8月16日)

塾生たちがいるというものの、今まで1人で生きてきた草庵に生活を共にしていっしょに歩む人ができたのだ。                              (提供 朝日新聞社)

    草庵先生紹介
日記  17                  雪の日の朝の青谿書院への訪問者 宮崎和夫さん作

池田草庵の書肄業餘稿(いぎょうよこう)に草庵が青谿書院を訪れた人たちに心を痛める一節があった。

「慶応2(1866)年冬11月12日、雪が降る寒空のなか、一婦人が子どもを背負い、夫と一緒に来た。その夫は失明し、生計を立てることができなくなっている。それで、人から食べ物を求めては日を過ごしている。妻が起きて、食べ物を手渡すと、背負われた子どもは大変喜び、夫婦もそろって拝むように何度も礼を言った。私はこのことを聞き、思わず悲しい思いで心が痛んだ」

 日記のように日付と、その日ことが書かれているが、日記「山窓功課」の中にはなく、塾生たちに話したことをまとめた「肄業餘稿」の第300条に書かれている。ちなみにこの日の日記はつぎのように書かれている。「早起き。講義は『人譜』をする。検読は3人。午後、塾生に肄業をする(後略)」(慶応2〈1866〉年11月12日)

日記には朝、心を痛めた出来事について何も書かれていない。草庵の日記は、あくまでその日自分がどんなに努力したかなどを反省するために書いているのだから当然とも言える。

しかし、ここで草庵について考えるために、この日の朝の出来事を書いた「肄業餘稿」の中の続きの文章を紹介する。

「あの人たちは、雪の中を歩き、食べ物があるわけでもなく、家もない。手足は凍え、倒れてそのまま死んでしまうこともある。なんと言うことだ」

雪の中を、食べものを求めて歩く人に草庵は心を痛めている。そして,「私たちは、貧しさやひどい災難、肉体的精神的苦しみにある人のことを、察することができるような人になることが大切だ。それができるようになった上で、世の中のために大きな仕事をしなければならない」と結んでいる。

草庵の人柄や生き方を考える上で、多くの示唆を与えてくれる文章だ。

                          (提供 朝日新聞社)

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日記  16                  養老会では養蚕のことなども話題になった。 宮崎和夫さん作

 お年寄りを招いて開く養老会は、安政2(1855)年からはほとんど毎年開かれていった。

「本日は、休講にする。朝、塾生に掃除をさせる。この日は、養老会をして村人が集まり一日にぎやかに過ぎる(後略)(安政3年3月22日)

 これは、2回目の養老会を催した日の日記である。この年の養老会は、書院の講義は休講にして、塾生に掃除をさせて村人を迎え入れている。この日は3月22日だが、現在の太陽暦でいえば4月下旬で、気候の良い時である。養老会はこの気候のよい時期を選んで開かれ、時には書院の周りに咲く桜をめでながら行われたこともあった。

 宴会の後、みんなで心置きなく語り合うことも養老会の楽しみの一つであった。どんなことが、お年寄りの間で話題になったのか。

 「それは自分の仕事、今までやって来た仕事のことなどで、桑や麻、それに機織りの事などがよく話題になっていた。それを側で聞いていると、本当に純朴で誠実なお年寄りの人柄が出てくる話で、今の若い人にはとても及ばないようなものであった。こういうことを聞いて、若い人がお年寄りに学ぶ風習が広まっていくことを願う」(「養老会記」より)

 お年寄りを敬い、いたわり、その人柄、知恵に学んでいこうとする池田草庵の願いがよくわかる。現在の国民の祝日である「敬老の日」は、「老人を敬愛し長寿を祝う」ことを趣旨として昭和41(1966)年に制定された。しかし、ここ青谿書院では、江戸時代末期に、すでにお年寄りを敬い、お年寄りに学ぶ集いが開かれていたのだ。

 その後も養老会は続けられていった。次のようなこともあった。
 「今日、村人相集まって養老会をする。一日中にぎやか。村人が、入門していた横田君兄弟(生野代官の子弟)を呼んで酒食を勧めた。そんなこともあって大酔いして早く就寝。この日も読書できなかった」(慶応2〈1866〉年4月4日)
 幕府の役人の息子たちと飲食を共にして、老人たちも大いに盛り上がったのだろう。

                                      (提供 朝日新聞社)
                   
    草庵先生紹介
日記  15                    養老会には工夫された食事が出された。 宮崎和夫さん作

青谿書院(養父市八鹿町宿南)には、村の人たちが訪ねてくるだけではなかった。池田草庵自身が書院に積極的に村の人たちを招くことがあった。年1回ではあるが地元、宿南村の老人たちを招いている。これは草庵が発案し、草庵が中心になって、村の人と相談しながら進めている。「養老会」と名付けていた。

 「今日は村人相集い養老会をする。老人80歳以上のもの12人集まる。一日中忙しくあれこれ雑事。この日、また読書できず。この日、國屋松軒来てしばらくして帰る」(安政2〈1855〉年3月22日)

 これは、養老会を初めて開いた日の日記で、草庵が青谿書院に来てから9年目のこと。草庵はこの会が終わった後、「養老会記」という文章を書いている。約480字からなる漢文で、会のねらいや意義、第1回の様子などが書かれている。

 その「養老会記」のねらいの部分を要約すると

 「年寄りを大事にする養老の教えは、中国には孔子のいた時代からあった。徳川の時代になって、落ち着いた生活ができるようになったが、人々の間に徳が十分いきわたっているとは言えない。そこで私は、思いやりの心などの『徳の気持ち』を村の人たちの間に広めるため、万分の一の助にでもなればと願って、昔の中国の教えにならい養老会を開くことにした」養老会では宴会も大事なことであった。

 「養老会記」には「会は決して堅苦しくならないようにして、老人が楽しく過ごせるように心づかいをした。会の中心である宴会は、食べ物は豪華なものではないが、老人の口に合うようなものを工夫し、酒は気分よくなるぐらいにした」との記述も。お年寄を慰労する草庵の配慮がよく伝わってくる。

         (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  14                    村の女性たちも青谿書院にやって来て,草庵と話した。 宮崎和夫さん作

 村人にも開かれていた青谿書院は、男の人だけがやって来たのではない。村の女の人たちもやって来るようになった。 池田草庵が宿南地区の青谿書院に移ってから一か月余り過ぎたころの日記。

 「池口家の老母(兄嫁の母)が前夜より泊まっている。いろいろと話をする。緑の山を眺望する。昼食後、お茶。しばらくして兄嫁が近所の婦女十数人連れてくる。にぎやかに楽しく過ごす。この日は読書できず。夜がふけてから寝る」(弘化4〈1847〉年7月16日)草庵の実家である兄たちの家は、書院からは1キロも離れていない。この日は、兄嫁が隣近所の女性たちを十数人も連れて書院にやって来て、にぎやかに過ごしているのだ。これをきっかけにして村の女性たちも書院にやって来るようになった。

 なお、この日の前々日の7月14日から3日間は講義も休みとなっている。日記には書かれていないが「盂蘭盆(うらぼん)」の期間ではないか。この間は、村人たちのにぎやかな交流の期間でもあったようだ。

「兄嫁といっしょに某婦人来る。日暮れ前まで対話して帰る」(嘉永元〈1848〉年8月1日)
「午後、某婦女ら数人来る。雑話する」(嘉永元年11月9日)
「兄嫁と村の女性数人集まり、にぎやかに過ごす」(嘉永2年2月11日)
「一老婆が来る。しばらくいろんな話をして、お茶にする」(嘉永6年11月9日)

 このように村の女性たちが書院にやって来ている。これら村の人たちの訪問について、日本の儒学を研究している吉田公平・東洋大学名誉教授は「村の人たちがこんなにしばしば儒学者の元を訪ねていることは珍しい。草庵は、村の人たちのカウンセラー的な役割をしていたのではないか」(平成27年度「夏の青谿書院塾」での講演より)と話されていた。                         (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  13                    青谿書院入り口 葵さん作

 青谿書院は池田草庵自身の勉学の場であり、若者の学びの場であった。しかし、それだけではない。村人がやってきて、ひとときを過ごす場でもあった。

 書院に引っ越して10日余り後の日記に次のようにある。

 「検読5人、授読2人。講義は『史略』をする。吉村重助に手紙を書く。午前中に高柳の福田佐右衛門が来た。午後4時ごろ帰った。(中略)後ろの山を越えて片山(実家)に風呂に行く。帰院して、食事をしてから読書。村人が来る。しばらく対話。村人が帰って、それから就寝」(弘化4〈1847〉年6月21日)

 書院に村人が来たことが書かれているのは、この日が最初である。この日以後、しばしば村人とか,一農夫とかと書かれている人たちがやってきて、草庵と対話したり、和やかな時を過ごしたりしている。

 「村人が来てしばらく対話する」(弘化4年9月2日)「村人、絵の軸物を持ってきて一緒に愉(たの)しみ、しばらく話してから帰る」(嘉永5〈 1852〉年12月8日)
 「村人が来てだんらんし、夜通し小酌する。読書せず」(嘉永7〈1854〉年2月22日)

 「村の客、数人ずつ次々とやってくる。昼時、少し酔って横になる。村人また目覚めた頃にやって来る」 (嘉永7年3月3日)

 書院が完成したとき、草庵はその感慨を「青谿書院遇題」という長い詩に書いている。その文末の方に、「(中国の)昔のすぐれた人たちは、世の中にあわないようだと、山に入り門を閉じて暮らした」と書いている。「門を閉じた暮らし」、それは世間から離れ、隠遁(いんとん)的な生活をすることだ。草庵はそういう生き方にもひかれていた。

 しかし、青谿書院の門は閉じられていたのではなく、開かれていた。村人をはじめとして、書院には次々と訪問者があった。草庵は日記に「来客があって、今日は読書が2,3ページしかできなかった」などと嘆きながらも、書院にやってくる人たちを迎えていた。
                 (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  12                        青谿書院の庭から青山方面を見た風景。書院の屋根とモミの木
                                                         の間に建設中の北近畿豊岡自動車道が見える   葵さん作


  池田草庵は青谿書院のある養父市八鹿町宿南近く、青山という山に囲まれた集落に時折、出かけている。

 「昼食後、午後の講義『小学』。その後、塾生十数人と青山に登り、周りの景色を見る。薄暮に帰院」(弘化4〈1847〉年8月6日)

  塾生十数人連れて青山に行き、周りの景色を楽しんでいる。
青山は小さな集落で青谿書院の前の道を数十分、山の方に登っていくとある。山の斜面を切り開いて道ができ、家々が建っていた。今も十数軒の家がある。青谿書院という名前は、この青山付近を源流として流れてくる青山川から名づけられた。
草庵はこの青山について「青谿書院記」に次のように書いている。

  「谷に沿って登ると、2里ばかりの所に青山村がある。山仕事や農業している家が 10軒ほど山の木々に囲まれてあり、わずかに家の屋根が見える。書院の窓からこれを見ると、静かな味わいのある雰囲気だ」

 青山の「静かな味わいのある」雰囲気に、草庵はひかれていたのだろう。

 「午後、青山に行き遊覧。晩までいて帰院」(嘉永元〈1848〉年9月8日)

 「午後、塾生を連れて青山に登り茱(ぐみ)を採る。ゆったりとしてから帰る」(嘉永4〈1851〉年10月15日)

  その青山で火事が起きたことがある。「早起き。明け方前、青山で火事がある。それで塾生を連れて青山にいく。夜が明けてから書院に帰る。(中略)青山の8.9軒慰問する」(慶応元〈1865〉年7月16日)

 明け方の青山の火事は、書院からも見えたはずだ。驚いた草庵は、急いで塾生たちとともに駆けつけたのだ。そして書院に戻り、一仕事終えてからまた慰問している。草庵は青山の自然の風景と共に、そこに住む人たちにも心を寄せていたのだ。
                 (提供 朝日新聞社)
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    草庵先生紹介
日記  11                       上流から社殿が流れてきたという寄宮神社

 池田草庵が川にでかけるのは、魚釣りだけではなかった。川に船を浮かべて楽しむこともあった。
「夜、寄宮に行って舟を浮かべて、楽しんだ。いっしょに行った者は数人。深夜に帰る」(嘉永4〈1851〉年7月5日)

 草庵たちは寄宮で舟を浮かべ、それに乗っている。川面や周りの景色を見て楽しんでいたのだろう。寄宮は、養父市八鹿町宿南地区内にある集落の名前で、円山川に近い所にあり、青谿書院からは2キロ足らず。円山川はこのあたりから川幅がずいぶん広くなっている。そこには用水路のための井堰(いせき)も作られていたので、川はある程度の深さや広さがあった。また、江戸時代の後半、円山川は舟運が盛んになり津居山(豊岡市)までの舟が行き来していたが、この地には、船着き場もあった。草庵はここにたびたび来ている。

 「今日は、西村氏の招きに応じて塾生十数人を連れて寄宮の下に船を浮かべる。深夜に書院に帰る」(嘉永6〈1853〉年6月24日)

 円山川は但馬の南端、朝来市生野町から北端の津居山まで、但馬を南北に縦断する川だ。
円山川の延長は68キロ、宿南はそのほぼ中間にある。この地域は、円山川の恩恵をたくさん受けて発展してきたが、また一方では洪水などの災害で苦しめられてもきた。

 寄宮地区に残る言い伝えによると、昔洪水があったとき、上流から神社の社殿が流れ寄ってきて岩場の背に止まり、それを祀(まつ)って神社にして、寄宮神社ができたという。地名の「寄宮」もそこから来たそうだ。円山川の歴史と共にある地区だ。

 「(前略)夜、塾生等を連れて寄宮で舟を浮かべて遊ぶ。しばらくして帰院(後略)」(明治10〈1877〉年8月25日)この明治10年8月の頃は、草庵は自分の体の変調を自覚するようになっていた。11月末には治療のため半年ほど東京にでかけている。草庵が、円山川で船を浮かべて楽しんだのはこの夜が最後であった。                                                    (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  10                        青谿書院周辺にも見られるドクダミ 宮崎和夫さん作

 池田草庵の日記には、青谿書院近くの円山川で魚釣りをしたことが書かれている。
 「(前略)夜、若い塾生を連れて蓼川に釣りに出かける。この日の読書は『書経』5ページ。語録のまとめ半ページ。京都の春日潜庵から手紙が来る。また、満福寺から使いの僧が来る」嘉永5〈1852〉年6月18日)

 川に釣りに出かけたのだ。蓼川というのは円山川のこと。蓼川という呼び方は、今でも豊岡市内の蓼川大橋や蓼川用水、蓼川堰堤(えんてい)などと使われている。

 書院から円山川までは、田畑の間を歩いて十数分ほど。手軽に行ける。この日は、塾生を連れて魚釣りに出かけた。そして、翌日もまた講義の後に出かけている。

 「(前略)、夕方、蓼川に釣りにいき暮れ前に帰る」(嘉永5〈1852〉年6月19日)
 残念ながら何を釣り上げたのか、釣り上げた魚をどうするのかなどは書かれていない。しかし、楽しかったのだろう、2日も続けて釣りに出かけている。

 次の日記は、休講の日に釣りに行ったこと。「休講。朝片山(実家)に行って、しばらくしてから池口家に寄って帰院。昼寝後、塾生を連れて川に行き釣りを終日する(後略)」(安政3〈1856〉年5月5日)  
この日は端午の節句の日、それで休講だったようだ。釣りに行った川の名前は書かれていないが、午後からずっと釣りをしている。釣りについて、草庵は次のような文を書いている。「幼い塾生を連れ、長い竿(さお)を持って、前の谷川に沿って魚を釣る。ほとんど俗世間から離れたようなゆったりとした気分になる」(『肄業餘稿』112条)。「前の谷川」というのは書院の前を流れる青山川だろう。草庵の釣りは日常の煩雑な事から離れ、静かに落ち着ける時間でもあったようだ。
                                    (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  9                         宿南の野に咲くホタルブクロ 宮崎和夫さん作          
  池田草庵の過ごした宿南(養父市八鹿町宿南)の里はその時期になると蛍がよく飛んでいた。宿南には青山川と三谷川の二つの谷川が流れ、円山川の水が用水路となり田畑の間を縦横に走っている。蛍の発生しやすいところだ。

「夜、塾生数人連れて里から外れた所を散策し、蛍を観る」(安政2〈1855〉年4月27日
「夜、塾生7,8人連れて蛍を観る」(安政4〈1857〉年5月28日
 蛍を観る楽しみは、子どもたちだけのものではない。草庵も楽しみにしており、塾生たちと蛍を見に出かけている。
 草庵は、蛍を見たことを漢詩に書いたことがある。その詩は、草庵が青谿書院に移る数年前、八鹿(養父市八鹿町八鹿)の立誠舎の時代に書いたものだ。

「八鹿の山中で、谷川の流れる音が遠くから聞こえ、山の蛍が暗闇の雨中を飛んでいく。心を静かにして、この静けさにひたる。この妙味を知っている人は昔から少ない」(「八鹿山中漫吟」意訳)

 聞こえてくるのは遠くで流れる谷川の音だけ。そして、見えるものは暗闇を明滅しながら飛んでいく蛍だけ。静かな世界だ。草庵は、こんな静けさを好んだ。

「夜、妻と若い塾生とを連れて、へちまと蛍を観てから書院に帰る。また、書院の庭で木の枝陰に入った月を観て楽しむ。みんなで座って蛍をしばらく観る。心から楽しめた」(安政6〈1859〉年5月6日)

 塾生といっしょに、ついには奥さんまで連れ出して、蛍や月を見て楽しんでいる。この時、草庵は結婚して10年ほど経っている。暗闇を飛び交う蛍を見ることは、草庵の夜の楽しみの一つだった。
                                    (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  8                          養父市八鹿町宿南から見た進美山

 「進(すす)美山(みやま)」は、国土地理院の地図によると、正式には進(しん)美(めい)寺山(じさん)という名前で、標高360・5メートルある。池田草庵はこの山を「進美山」と書き、地元でも多くの人がこの名で親しんでいるので、ここでは進美山と書く。豊岡市日高町赤崎にある山だが、その山の立ち姿がより美しく見えるのは青谿書院のある宿南地区(養父市八鹿町)からだ。高い山とは言えないが、かつては山上からの眺めがすばらしかった。だから草庵もこの山のことを文章に書いたり、実際に登ったりしている。「中山吉二郎と塾生十数人連れて、進美山に登る。暮れに帰る。夜は疲れが出た。動きにくく、足が腫れて座ると痛い。不安になって早く寝る」(弘化4〈1847〉年8月17日)進美山の頂上には、白山権現を祀(まつ)る祠(ほこら)が建てられている。頂上を少し下った所には、進美寺という由緒ある天台宗のお寺がある。お寺の観音堂に通じるところには仁王門があり、仁王像が今もにらみをきかせている。

 「午後、林、岡田の2人と塾生数人連れて進美山登山。暮れに帰る」(嘉永3〈1850〉年9月24日)
林、岡田というのは、多度津藩(現、香川県多度津町)から入門した塾生だ。遠来の塾生を進美山登山で歓迎している。「午後、若い塾生十数人連れて進美山に上る。日置(現、豊岡市日高町)に下山。暮れ帰る」(安政5〈1858〉年10月15日)
進美山に登るには、二つの道がある。赤崎地区から登ると距離は短いが急坂だ。「足が腫れて痛い」と書いているのは、このルートだったのだろう。もう一つは、ここに出てくる日置からだ。ここからは、比較的なだらかな道を登って頂上に行ける。

 草庵は「学ぶということは登山のようなものだ。苦労して山上に達すれば、視界は広がり、今まで見えなかったものが見えてくる」(「肄業餘稿」36条)と言っている。学ぶとはどういうことかを、進美山登山を通しても教えていたのだろう。                                             (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介
日記  7                           草庵のふるさと宿南の里と山なみ
                                        宮崎和夫さん作

池田草庵は、青谿書院の中だけで講義や読書などをして過ごしていたのではない。周辺の山野にもよく出かけていた。塾生にまわりの自然に親しませるためであり、運動不足になりがちな草庵自身や塾生の健康のことを考えてのことでもあった。

「検読4人、授読1人。講義は『答張籍書』。昼寝後、幼い塾生を連れて前山に登る。夕方、村の客数名来る(後略)」(弘化4〈1847〉年6月13日)この日は、講義が終わってから、塾生を連れて書院の前にある山に登っている。

「(前略)講義は『孟子』。午後、後山に登る。ゆったりとして帰ってから風呂」(嘉永元〈1848〉年11月17日)
これは、ふもとに書院が建つ源氏山に登ったこと。前山、後山は共に書院の近くにあって、どちらもそんなに高くはない。書院を一歩でれば、もう山に続く道があり、散策はすぐにでもできる。

日記には、付近の山々だけでなく田畑の中、野原なども散策したことが多く記されている。これら田畑の中などを歩いたときには「逍遥(しょうよう)」という言葉をつかっていることが多い。自然に親しみながら、ゆっくりと散策しているのだろう。

「夜になって、幼い塾生を連れて田の間を逍遥して、桜の花を楽しむ」(嘉永6〈1853〉年3月1日
「夜、塾生4,5人連れて里から離れた野原を逍遥する」(安政6〈1859〉年8月2日)

これらのことについて、長年、草庵のことを研究されている木南卓一先生(手塚山大学名誉教授)は、室内での静座や読書は「静の修養」で、草庵の散策などは「動の修養」と表現する。そして、「(草庵は)動にしたがい、静にしたがい、修養に努められた」(「池田草庵先生」木南卓一著)と書いている。 
                                     (提供 朝日新聞社)
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                    草庵先生紹介
日記  6                     叱るときも草庵は塾生と向き合っていた
                                        宮崎和夫さん作

青谿書院で学ぶ者は若者が多かった。それだけに生活態度や行動で問題になるようなことも起こった。そんな時、池田草庵は若者たちをどう導いていたのだろうか。日記には、叱る、注意するという意味を表す言葉がよく出てくる。嘉永2(1849)年の日記から見る。

「2月16日 幼い塾生を呼んで責譲する。黙って向かい合ったまま、線香が4本燃え尽きるまで座る」  
「3月23日 塾生を呼んで、しばらく詰責する」
「9月2日 幼い塾生に督責訓戒する

ここには、責譲(責めとがめること)詰責(責め問い詰めること)、督責(責任を果たすように監督すること)、訓戒(戒め教えること)などの言葉が出てくる。草庵はそれぞれに使い分けているのだろうが、平たく言えば「叱る」「注意する」というようなことだったのだろう。具体的には、どのようにしていたのか。

幼い時から書院で学び、後に京都府知事などを歴任した北垣国道は、草庵の没後30年祭の祭文で、草庵に叱られたことの思い出を述べている。

「私に過失あるとき、先生は私の前に座られ、いっしょに数時間静座された。時には、夜中になっていることも忘れるぐらいであった。私は最初は座ることの苦しみに耐えられなかったが、だんだんと静座する精神が身についてきて、その後も静座を私の日課とするようになった」(豊田小八郎著「但馬聖人」)
草庵は、口先で一方的に注意したり叱ったりしていたのではない。長い時間がかかっても、塾生自身が自分を見つめ、自分で気づいて反省することを大事にしていたのだ。

また、草庵は「学んでもそれが身につかないのは教える者と学ぶ者に、等しくその責任がある」(「肄業餘稿」63条)とも言っている。これは勉学のことについて言っているのだが、塾生が問題を起こしても、「教える者と学ぶ者に、等しくその責任がある」との考えから、塾生のそばに草庵自身も座って、自分を見つめていたのではないだろうか。                                                                        (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介
 日記 5                    塾生と和やかに過ごす草庵(左) 宮崎和夫さん作

 池田草庵は塾生に規律ある生活を求めていた。「みなさんは、毎朝早く起き、顔を洗い口をすすぎ髪をとき、部屋を掃き、机の上をふき、衣服を整えて机に向かいなさい」(「肄業餘稿」10条)などと。このような規律ある生活が塾生の心身を育てることにつながると考えていたからだ。これを塾生に求めただけではない。草庵自身がそのような生活態度で過ごす努力をしていた。しかし、草庵は規律ある生活を厳しく求めるだけはなかった。塾生との和やかな心のふれあう時間も持っていた。

 青谿書院は草庵の住まいでもあったから、夜でも塾生と向き合うことが多かった。その中では、昼間の講義を中心とした生活態度とは違う、草庵の姿が見える。弘化4(1847)年、青谿書院に引っ越した年の日記

「6月17日 夜に入り肩がこり,歯も痛い。幼い塾生に肩をたたいてもらう」

 草庵はどちらかと言えば病弱な体質で、日記の中でも、体調が悪いという意味のことをよく書いている。この夜は肩こりと歯痛である。塾生に肩たたきを頼んだのだろう。草庵と塾生の間の雰囲気が伝わってくる。

 「7月12日 塾生と対話してしばらく過ごす。夜に入って、また塾生と対話する」
 「9月28日 塾生とお茶を飲む。夜にまた塾生とお茶を飲む」
 「10月17日 塾生数人を呼んで団欒(だんらん)」
 「10月18日 塾生4、5人集まり、少し酒を酌み交わす」
 数々の記述があり、年長の塾生とは時には少しの酒を酌み交わすこともあった。

 厳しく自分を律していく草庵であったが、塾生と和やかな時間持つことにも努めていた。
こんな草庵のまわりには、塾生だけではなく知人、村人、塾生の先輩などもよくやって来て、話したり相談したりお酒を酌み交わしたりして、楽しい時間を過ごしている。
                                                     (提供 朝日新聞社)
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 日記 4                            
池田草庵の著作に「肄業餘稿(いぎょうよこう)」がある。これは草庵の語録集とも言えるものだ。日記「山窓功課」は貴重な記録であるが、草庵理解のためには簡潔過ぎてわかりにくいところがある。

 「肄業餘稿」は、それを補って草庵理解を深めてくれる。例えば「志は高く大きく持ち、それを実現するための努力は身近なことからやっていく」(19条)、「書物を読んでも疑問に思うところがないのは、読んでいても心を集中させていないからだ」(27条)などの草庵の言葉(文)が集められている。これらは、草庵が塾生に語りかけた言葉なのだ。

 青谿書院に移って12年目、安政5(1858)年11月4日の日記に次のようにある。「(前略)午後、講義、塾生5、6人に肄業。(後略)」 この日初めて、「肄業」という言葉が出てくる。これ以後、月に2,3回は「塾生に肄業」と書いている。肄業とは、業(わざ)を肄(なら)わせるということで、技(わざ)を学習させること。ここでは漢文の書き方の技を習得させようとしていることだ。そのために、草庵は自分が塾生に話をして、それを塾生に漢文で書かせた。その塾生が書いたものを、添削して漢文の書き方を指導した。草庵はこれを「肄業」と言っているが、講義の一つの形と言えるだろう。

 塾生に語りかけた内容は、草庵の人生観、勉学や読書の進め方、日常の感慨など多種にわたっている。これらを一冊にまとめたものが「肄業餘稿」という書物になった。

 日記に肄業が出てくる最後は明治10(1877)年11月17日。次のように書かれている。
「早起。部屋を掃除する。(中略)午後、塾生に肄業をする。後で,録した語を清書し、少し書き加える,(後略)」
肄業は約20年間続けられ最終的には全部で490項目の言葉(文)が「肄業餘稿」としてまとめられた。                                                                  (提供 朝日新聞社)
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 日記 3
池田草庵は、塾生が「徳を養い、身を修め、世の中の出来事に対応できるように」(「肄業餘稿(いぎょうよこう)」62条)なることを願って講義していた。

 前回も書いたが、日記「山窓功課」によると、書院での講義は書院に移り住んだ翌日から始められている。内容は儒学の基本的な書物である「論語」「大学」「中庸」「小学」「易経」などを読み、解説していくことが中心であった。講義した項目は、その都度日記に記録されている。例えば、次のようにである。(以後、草庵の文章の引用は原則として意訳で紹介)
「(風邪気味のため)ゆっくり起床。検読4人。授読2人。講義は『論語』2章。また読書は『言行録』。昼時、山中散歩。午後、講義は『小学』。長兄来て、しばらく対話。京都の春日潜庵より手紙来る。何度も読み、慰められる。夜、講義は『天文成年譜』4,5ページ。検読1人。(後略)」(嘉永元(1848)年10月27日)
ここに出てくる「検読」「授読」というのは個別に、書物の読み方や考え方を塾生に指導していたものだ。講義というのが今の教室での授業の形に近い教え方のこと。

 明治40(1907)年に発行された伝記「但馬聖人」(豊田小八郎著)には、「(青谿書院では)学級というものは特になかった。ただ、学力のほぼ同じような者をまとめて、教えられた。だから、人数の多い組は、数十人になり、少ないのは数人であった」と、かつて門人だった人の体験が書かれている。この「但馬聖人」は、実際に書院で学んだ人たちから体験を聞いてまとめて書かれたところが多く、草庵や書院の姿が具体的に伝わってくる。また、その「但馬聖人」では、「草庵先生は、書物を講義するときは、少しも言葉を飾ることなく、極めて淡々と話された。しかし、その言葉の味わいは深いものがあり、しかも意味がとても分かりやすかった」と草庵の姿を伝えている。 講義は32年間熱心に続けられた。明治11(1878))年9月24日に草庵は亡くなるが、その数日前まで講義をしてことが、日記で知ることができる。            (提供 朝日新聞社)
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 日記 2
 八鹿(養父市八鹿町)の借り住まいであった立誠舎から、念願の青谿書院ができて移ったのは弘化4(1847)年6月8日である。「山窓功課」には引っ越した当日のことを次のように書いている。(意訳)

「6月8日 朝、又あれこれとある。祝いの客5、6人来る。午前西村家に行き食事。昼寝の後、八鹿の3、5軒の家に行く。宿南村に向かう。村中を村人送ってくれて、大森で別れる。(西村)庄兵衛、五平,(國屋)松軒は、まだ送ってくれて、宿南の山間の新居に来る。この日、塾生らは私のために先に宿南に来ていた。年長の塾生は前日から来ていた。また、その他豊岡などの門人達が、二十四、五人集まってきた。みんなで、お祝の宴を催す。この夜、八鹿の3人は帰った。夜遅く就寝」 
八鹿の立誠舎から宿南の青谿書院までは、5,6キロはあるだろう。多くの塾生たちの協力もあって引っ越しが完了した。みんなでそのことを喜び、お祝いの宴もあった。

翌9日には、終日疲れていた、と書いているが、もう講義を始めている。多くの村人たちが、お祝いに書院に来るのも受けている。

そして、引っ越してから10日後の日記。

「6月18日。検読5人。授読1人。講義は『韓公』について。午睡.結髪。午後の講義は『小学』。しばらくして兄が来て、夜に帰る。盛之助来る。少々疲れがあったので、盛之助に『象山文』を数編読んでもらい,それを聴く。今日の読書は『通鑑』、22ページ」   
講義も午前と午後1講ずつが定例化してきて、読書も本格的になってきた。いよいよ青谿書院で読書や講義中心の生活が始まった。                             (提供 朝日新聞社)
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日記 1
 池田草庵は弘化4(1847)年の正月から日記「山窓功課」(最初のころは「山房功課」)を書き始めた。満33歳、八鹿の立誠舎を借りて塾を開いて4年目であった。それから亡くなる明治11(1878)年9月までの32年間書き続けた。日記を書く動機を1月1日の冒頭に書いている。意訳すると「月日はまたたく間に過ぎている。今から10年前、私は京都松尾山中で修行していた。そのときの歳の暮れに、次のような漢詩を書いたことがある。

 天保9年 歳の暮れの感慨 光陰石化(年月は火花のようにすぐ消える)とは嘘の言葉ではなかった。私の今までの26年間は夢のうちに過ぎて行ってしまった。成人して相馬九方先生を訪ねて行ったが、今は年を重ねてきた。悠々と勉学していて何ができるというのか。

 この詩を書いてからも、私は何をしてきたと言えるのだろうか。そのことを思うと嘆かずにはおれない。それで今日からは、日々どんな努力をしてどんなに成果があったかを記録して自分の反省の材料にしていく」

 悠々、つまりのんびりと過ごしてはおれないという思いから、草庵は日々の反省を書き続けていくことにしたのである。この年の6月には、ふるさと宿南の地に建てている念願の青谿書院に移ることになるが、それへの期待も込められているのだろう。
 この冒頭の次に、最初の日記を次のように書いている。

 「1月1日 村中の賀客5、6人相見える。又塾生と団欒し話し相う。併(しか)し其(そ)の間『通鑑綱目』30帖(ページ)読む。夜半頃就寝」
 年の初めのこの時期、書院の完成も近く胸も膨らんでいたことだろう。日記の簡潔な記述の中にも、塾生とも楽しく話せ、読書もしっかりできた充実感がうかがえる。草庵の後半生、32年間の記録のスタートだ。
                          (提供:朝日新聞社)
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                    草庵先生紹介

三十余年の日記

 池田草庵は、弘化4(1847)年6月に青谿書院を八鹿町宿南に建てて移った。その年の1月1日
から亡くなる明治11年9月までの三十余年、日記「山窓功課」(初期のころは「山房功課」)を書き続けた。

 その日記の一日の記述はとても簡潔だ。例えば、青谿書院に引っ越した翌日と翌々日の日記は次のように書いている。(意訳)「6月9日 疲れていた。ゆっくりと日を過ごす。朝,開講。『論語』の講義。(中略)片山(実家の場所)の兄や兄嫁が来訪。村中の6、7人祝いに来る。夜深就寝」「6月10日 朝、塾生に検読4人、授読1人。結髪。昼寝の後、『史略』を講義。村中の6,7軒訪問。夕方帰院。蚊に責められて、大変困る。読書に集中できず。読書はわずか2,3ページだけ。早めに就寝」簡単な記述だが、行間からは儒学者としての草庵の願いや思い、村の人たちとの様子などを垣間見ることができるのだ。

 これらの日記の原文は、毛筆でほとんど漢字で書かれている。今の私たちが読むのはなかなか難しい。それを全部解読し、私たちにも読めるようにしてくださったのが現・朝来市山東町の故・西村英一氏である。西村氏は昭和18(1943)年に宿南小学校長として赴任されて以来この日記の解読に努められ、退職後も三十数年、心血を注いでこの解読に当たられた。そして、西村氏の自筆のまま、多くの人の協力で、上、中、下の3巻として出版された。

 この度、吉田公平先生(東洋大学名誉教授)のご指導を受けながら、西村氏の解読された「山窓功課」を「池田草庵先生に学ぶ会」と宿南地区有志のみなさんとで、誰でも読めるようにパソコンに入力する作業を続けている。
「草庵と青谿書院」については本稿で終わり次回から「本編」としてその日記を紹介しながら、ふるさとで人材を育て、全国に教育や文化を発信し続けた草庵に学んで行きたい。

                              (提供 朝日新聞社)
                 草庵先生紹介

青谿書院の役割

 池田草庵の青谿書院は、養父市八鹿町宿南の山あいに立っている。建物は木造で、屋根は主にかやぶきであるが、一部瓦ぶきのところもある。1階は講義する部屋と草庵一家の住まい,2階は物置や塾生の宿舎として使われていた。江戸時代の私塾が現存するのは、全国的に見ても珍しく昭和45(1970)年には県指定の史跡となっている。

 池田草庵が青谿書院について書いた「青谿書院記」という文章がある。

 その冒頭には、「青谿書院池田緝読書之處也」(青谿書院は池田緝の読書する処なり)とある、「青谿書院とは何をする所か」について草庵自身が答えていると言っていいだろう。「青谿書院は池田緝が読書すると所だ」ということだ。「緝」というのは草庵の名前で「草庵」というのは別名の「号」なのだ。

 ここでの「読書」は、単に書物を興味本位で読んだり、知識を広げていったりするためだけの読書ではない。草庵の読書は、それによって学問を深め、自らを高めていくことに大きなねらいがある。さらにその上に、書物を中心にして講義や対話などを通して若者を育成していくという意味も含まれている。実際、今後紹介していく草庵の日記である。「山窓功課」には、32年間にわたり、どんな書物をどれくらい読んだか、どんな講義をしていったかなどが毎日のように記されている。

 「青谿書院記」にはこの他に、書院を建てるまでの自分の半生やなぜこの地を選んだのか、ここで何をやりたいのかなども書かれている。明治11(1878)年、草庵が65歳で亡くなったとき、門人たちは先生の死を悼み,死の2年後にこの「青谿書院記」の文章を石碑に刻み、庭の端に建てた。石碑の文字は、明治時代の3大書家と言われる長三州が揮毫した。

                                   (提供 朝日新聞)
 

草庵先生紹介

 青谿書院が完成

 27歳で池田草庵は、京都市内で自分の塾を開いた。その草庵に、ふるさとの人たちは「帰郷してふるさとの若者たちに教えてほしい」と懇願してきた。それで29歳になったとき、ふるさとに帰り、八鹿村(現在の養父市八鹿町)の西村潜堂(庄兵衛)が所有していた山館「立誠舎」を借りて塾を開いた。立誠舎はもともと心学という学問を学ぶ所(講舎)だった。そこは、八鹿の街中の高台にあり落ち着いた場所だ。草庵は、「立誠」というのは、自分の目指している目標でもあると、立誠舎の名称をそのままにして塾を始めた。その建物は平成22(2010)年に、当時のままの姿に復元されている。

 立誠舎での4年間に、主に但馬地方中心にして60人余の若者が学びにやって来た。その中には、池田盛之助、池口芳太郎(共に旧養父郡宿南村)木築秀次(旧城崎郡福田村)、安積理一郎(旧朝来郡和田山村)、國屋松軒(旧養父郡八鹿村)、北垣晋太郎(旧養父郡能座村)など、その後の草庵を強力に支えた人たちがいた。

 その後草庵33歳の弘化4(1847)年、自分の出身地である宿南に青谿書院を建てることができた。建てた所は、村里からは少し離れた、山間の静かな所だ。すぐ近くを細い青山川が流れている。「青谿」という名前は、この川の名に由来すると草庵自身が書いている。

 念願の自分の住まいであり塾である青谿書院ができた喜びとこれからの決意を、後に「青谿書院記」という文章の中で、「吾終焉之図定矣」(「吾が終焉の図定まれり」=私の一生の拠点ができた)と書いている。実際それから65歳で亡くなるまでの生涯を、山あいの静かな青谿書院を離れることなく読書や思索、塾生の育成などで過ごした。

(提供 朝日新聞)

    草庵先生紹介

儒学との出会い

池田草庵は江戸後期の文化10(1813)年7月、現在の養父市八鹿町宿南に農家の4人兄弟の三男として生まれた。草庵は、8歳の時に慈愛深かった母を亡くし、病弱だった父もその2年後に亡くした。長兄が家を継ぎ、他の兄弟はそれぞれ離散して暮らすことになった。
草庵は母を亡くした翌年、弘法大師が開いた真言宗で、「但馬高野」とも呼ばれた満福寺(養父市十二所)に預けられた。ここで、立派な僧侶になるために仏道の修行をしながら、読み書きの勉強にも励んだ。

 一生懸命な草庵の姿を見て、住職の不虚上人はとても頼もしく思い、将来を期待していた。

 16歳のとき、たまたま近くの広谷に来ていた儒学者の相馬九方の講義を聞く機会があつた。

草庵は九方に出会い、講義を聞いて、自分の進む道は仏道よりも儒学の道だと思うようになった。
この思いは、草庵に期待していた不虚上人に許しをもらえることではなかった。しかしどうしても諦めることができなかった草庵は、とうとう17歳のとき無断で寺を出たのだ。

 そして京都の相馬九方の塾に身を寄せた。そこで、塾の雑用などもしながら勉学に励んだ。生涯励まし合う友人となった春日潜庵ともここで知り合った。

 なお、「青谿書院記」という文章の中で草庵は、この時の自身の学問の姿勢を,「尋師訪友」と書いている。「師を尋ね友を訪問して」勉学したということだ。この四文字熟語は今、養父市八鹿町の県立八鹿高校の玄関前に、校訓の一部として刻まれ、学ぶ若者への指針となっている。

 22歳で草庵は相馬九方の塾を去り、京都の西の松尾山付近に1人移り住んだ。貧しいくらしの中で、読書と思索を重ねていった。
そして再び京都の市中に出て、自分の塾を開いた。27歳の時だった。

            (提供 朝日新聞)
   草庵先生紹介

幕末 地域から文化発信

今、北近畿豊岡自動車道の工事が豊岡市に向かって急ピッチで進む。養父市八鹿町宿南の静かだった渓谷にも八鹿から日高に抜ける大きな橋梁ができつつある。その橋の近くに、江戸時代末期の弘化4(1847)年に建てられた青谿書院が、橋とは対照的に昔のままの姿で建っている。

 青谿書院は、満年齢で34歳の時に池田草庵が建てた私塾である。今からおおよそ170年前のこと。そのころ但馬には、出石藩の弘道館、豊岡藩の稽古堂、村岡藩の明倫館などの藩校はあったが、主にその藩の武士たちが学ぶ所だった。 草庵の青谿書院は、主に儒学に基づいた教えを中心にした漢学塾で、地域の農民や町人の子弟を初め、若い武士たちも学びにやってきた。この塾に来る者は、但馬各地からはもちろん、草庵の名が知られていくにつれ遠くは現在の宇都宮市、長崎県平戸市、香川県多度津町など全国から、やってくるようになった。

 明治11(1878)年に草庵がなくなるまでの約30年間に、門人帳に記載されているだけでも700人近い。地方創生が叫ばれている今、この狭い山あいを生涯の住まいと定め、自分の生き方を追求しながら地域の人材育成、さらには全国に教育や文化を発信した草庵に学ぶことは多い。草庵はこの青谿書院を建てた年の1月1日から、亡くなる年まで32年間の日記「山窓功課」(初期のころは「山房功課」)を残している。これを手がかりに、草庵の生き方を学んでいきたいと考え、私たちは今、この日記をだれにでも読むことができるように現代語訳して、パソコンに入力する作業を続けている。

               (提供 朝日新聞)
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