町区の歴史を紐解くと、町区の中心を豊岡街道が通り、その道は旧寄宮坂を越えて町の中ほどで鉄道下をくぐり、田圃の中を西へ向かいホーキ下を通って浅倉へと続いていた。明治14年作成の宿南村地図によると、町区はこの道沿いに展開していた。上から順に小字名を拾うと、町の上、町、土居の内、庄、町の下となっている。このうち土居の内、町が中心街だったようで、この両字は豊岡街道をはさんで向かい合っていた。鉄道側が土居の内、円山川側が町である。土居の内とは鎌倉時代の地頭館跡地を指す場合が多い。地頭館があったことが想像できる。
鎌倉時代の町区の景観は、地頭館の前に住民の家々が建ち並んで集落を形成していたとみることができる。豊岡街道は三谷川を渡る所で、宿南の奥、三谷へ向かう道と交差していた。土居の内の地頭館は南北朝期にはこの道の奥、宿南城下の字館へと移る。
ところが町の集落があった辺りは円山川大洪水のときには住家がよく浸水した。年によっては流出家屋もあったようである。そこで江戸時代も中ごろ以降になると町区の現在地へ住居を移す家が現れてきた。大正期ごろまでには全戸の移転が完了し現在の姿となっている。
町区の特徴的行事としては塚の神祭りがある。ヒロク谷の入口部に円墳があって、明治期、その地を所有の地主がこの丘の上部をならしてお堂を建てようと、人夫を雇って工事にかかったところ、大きな岩が現れそれを除くと下は空洞であった。命じた地主はその夜急病を発して床に就く身となった。その後地主は石室の存在を語り、「後人暴くことなかれ」と記した碑をそこに建て戒めている。こんなこともあって祠を建て塚を祀ることとなった。その日、座って祈りを捧げていた祈祷師が座ったまま一尺余も飛び上がった姿に驚かされたという話もある。祭礼は12月14日、地区の男児だけが宿に集まりおむすびを食べたのち、塚前の広場で大きなたき火を燃やして遅くまで談笑する習わしであった。大人達も大勢詣ってきた。たき火の薪集めはこどもたちの仕事であった。第二次大戦後は女児も加わってにぎやかに一夜を語り過ごす祭りとなり現在も続いている。
町区(文責 宿南 保・宇和野修介)
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