歴史に詳しい神戸に在住だった谷垣桂蔵先生は、山の中の小部落の三谷に三回ほど来られて、
氏神様の下らの畑、そして朝倉さんの裏の畑からも須恵器を発見されました。これは少なくとも平安期の頃には部落ができていたと見られる訳でその歴史の古さに驚きました。
現在の八鹿町の開発よりも何百年も古く開けた村であると思うと三谷が何故早く開発されたのか、その謎を解いてほしいものだと思います。古文書の多くは、その家の都合のよいものだけが保存され
残されますが真実を伝えるものが案外少ないものです。古文書を調べると共に、事実実物によって科学的に研究して頂きたいものです。どうか、古文書や民族や遺物、遺跡、伝説など、とにかく調べて書き残しておくようにして下さい。それをもとに、また研究して下さる方ができると思います。
口三谷に片山武一という人がありました。その先代は榮臓といいますが、その家は代々助右衛門を世襲していて、その家の初めの頃の墓地は立派なもので、その横に石だけがおいてある小さな墓地があります。これが家来でしょうか。今でもこの家の屋敷跡や子孫が残っているようです。この武一さんの家系を調べてみますと、宗恩寺より古い記録が残っています。これが口三谷の片山姓と維田姓の家系の原点ではないでしょうか。残念ながらこの武一さん宅は榮臓さんの時代に家屋は全焼し、いまは絶家となっています。維田姓は元飯田との記録や伝承があり、元は片山姓です。昔は名前だけで姓を記した記録のある家は少ないと思います。
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