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そうあんくん
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 町 地 区  宿 南 城
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〒667-0003 兵庫県養父市八鹿町宿南1187-1
TEL&FAX 079-662-3400  
       
     
 三谷地区
 口三谷区


 歴史に詳しい神戸に在住だった谷垣桂蔵先生は、山の中の小部落の三谷に三回ほど来られて、

氏神様の下らの畑、そして朝倉さんの裏の畑からも須恵器を発見されました。これは少なくとも平安期の頃には部落ができていたと見られる訳でその歴史の古さに驚きました。

現在の八鹿町の開発よりも何百年も古く開けた村であると思うと三谷が何故早く開発されたのか、その謎を解いてほしいものだと思います。古文書の多くは、その家の都合のよいものだけが保存され

残されますが真実を伝えるものが案外少ないものです。古文書を調べると共に、事実実物によって科学的に研究して頂きたいものです。どうか、古文書や民族や遺物、遺跡、伝説など、とにかく調べて書き残しておくようにして下さい。それをもとに、また研究して下さる方ができると思います。

口三谷に片山武一という人がありました。その先代は榮臓といいますが、その家は代々助右衛門を世襲していて、その家の初めの頃の墓地は立派なもので、その横に石だけがおいてある小さな墓地があります。これが家来でしょうか。今でもこの家の屋敷跡や子孫が残っているようです。この武一さんの家系を調べてみますと、宗恩寺より古い記録が残っています。これが口三谷の片山姓と維田姓の家系の原点ではないでしょうか。残念ながらこの武一さん宅は榮臓さんの時代に家屋は全焼し、いまは絶家となっています。維田姓は元飯田との記録や伝承があり、元は片山姓です。昔は名前だけで姓を記した記録のある家は少ないと思います。

祇園神社について奥三谷区

祇園神社の神棚

祇園神社

 山に囲まれた小さな集落ですが、神仏に係わる公共の建物が八ヶ所と石仏だけのものが二ヶ所あります。

 今回は祇園神社の再興について少し述べます。最初の建立の時期は不明ですが、祇園屋敷の麓にある愛染山宝龍寺の慶林和尚が、祇園神社が廃朽していたので再興させる為に奉賀帳を持って近村を廻り宝暦三年(1753年)に祇園三租を再興させた。三租の一人牛頭天王が疫病、風病等人間の五体を苦しめる、はやり病疱瘡、痳疹等を平癒し、はやり病の神として信仰された。当時は出石 西気 三方や近村より多くの参拝者があったと古文書に記されている。

 現在御神体の木像三体があり一体の破損がひどい、三租の前面に一箇宛の銅鏡があり、他に御札をつくる木版があり表面に護摩供愛染山と記してある。又金属製の燈籠が一対慶応四年(1868)に奉納されている、獻主は但馬国侍八鹿住西村庄兵衛延真の銘がある。言い伝えで明治以後も祭には近村より参拝者がありにぎわった。終戦直後の祭に下小田の人が夜店を出しこれが最後の夜店になった。その後も区の厄年の人が白い衣に寅年生まれの男と書いて鈴の所より吊りさげて祈願された事は覚えています。祭壇の前が約十二畳の板の間になっており子供達の遊び場になっていた。 昭和四十年春に瓦葺をトタン葺に替えられた。

 毎年七月七日が本祭で当番隣保がノボリを立て、山海の幸や御酒、鏡餅をお供えして区民がお参して無病息災を祈願しております。戸数も最盛期の3分の1に減り、子供も中学生以下は一人も居ない現状ですので、今後これ等多くの公共文化財の保存や、区の伝統行事の存続が大変です。
岩谷神社のこと口三谷区
岩谷神社
 口三谷には、三柱神社と岩谷神社の二社がある。岩の谷間にあるので岩谷神社と言われているが、村人は下の宮と言っている。

 この辺が三十八(みそや)と言う地名であることは、この神社の神殿に「三十番神」「天空地三神」「過去現在未来三神」「日月二神」「三十八社権現守護所」等々と記された木札があることによるものと最近知った。この木札は漢文で我々には深く理解出来ないが、「勧進者」「口深村建立」「宝永七年寅二月五日」と記されていて、裏面に祈願文と二十三人の氏名が記されている。当時は二十三戸であったことが伺い知れる。

 この神社には今は三十八橋(口三谷橋)を渡った所から山すその川沿いを八十m程下った所にあるが、昔は対岸の三谷道から石段で川に降りその川の中央に八畳くらいの平らな岩がありその岩から板橋を渡ってこの岩谷神社に参拝していた。この平らな岩の上流の中央に大きな岩がありこの岩には神様の手形があり大昔には山頂にあったものが川に落下し、その部分が下となり今は見えないものと伝えられ、神様の手形として村人は拝んでいたが河川改修のため壊され今は無い。その岩と対岸の岩山との間に滝があり、滝壺があって昭和初期にこの滝壺の水を「雨降れりゅうがんどう。くもれたもれりゅうがんどう」と村人が集って、この平らな岩に水をかけ、雨乞いをしていたことがある。
 又この岩谷神社は明治の初期には「徴兵よけの神様」「くじ抜けの神様」だというので、祈願者が続々参拝したという話も残っていると八鹿町史下巻にも記述されている。
秋葉神社  奥三谷
秋葉神社

秋葉神社
前回は祇園神社について紹介しました。今回はその祇園神社の裏山にあり、10mほど高いところにある秋葉神社についてお話します。

[秋葉神社は全国に点在する火防(ひよけ)、火伏せの神として、広く信仰された秋葉大権現を祭神としています。一般に秋葉台権現の信仰は徳川綱吉(1680〜1709)の治世以降に全国に広まったようです。]
その昔、秋葉さんの地内にある、松の大木に落雷があり、これは民家への被害が及ぶのを秋葉さんが助けてくれたのだとの話を聞いたことがあります。今ではその松の大木は、松くい虫で枯れてしまいました。

神社の建屋内に残っている木札には、寛政二年(1790年 11代将軍 徳川家斉)戌霜月八日、養父郡三谷村中修復建立。又、明治七年戌五月吉辰屋祢建立(世話人:朝倉利右衛門、小田垣辰左エ門)等、読めなくなった物も含めて何枚かあります。

奥三谷地区では、毎年四月十八日に小豆ご飯のおにぎりと少しの副食をお供えして区民全戸お祀りして、般若心経を三回唱えて、一年間火難のなかった無事に、また、向こう一年の無事をお願いしお祈りします。其の後、皆でおにぎりをいただくという慣習を行っています。

       
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